荒城の月輪観

書くことがないわけではないけれども、まあ客観的に述べなくてもいい事柄なわけで。これを見ている皆様は「何のことやらさっぱりわからない」とお思いでしょうが、日記を始めさせていただきたいと思います。
今日、後輩たちがサークルを卒業しました。鹿鳴館大学のうちのサークルは毎年この時期が上回生のサークル引退にあたるわけです。彼らとは三年という長い付き合いでしたが、こうして引退の会場に足を運ぶと、その月日は一瞬であったかのように思われます。こう考えると人間の時間というものは過去をパッチワークして構成されているものだと実感します。どうでもいい事柄や、瑣末な出来事、思い出したくもないトラウマはアカシックレコード*1に放り込まれ、われわれの表皮で記憶、思い出として機能しているのはごくわずかな部分なんだと思います。
しかし恐ろしいのは、この考えは我々が自我を主体としたときのみに当てはまる事柄ということです。もし、宇宙の記憶媒体であるアカシックレコードのみが真実で、我々はそこに浮かぶ上澄み、もしくは灰汁(アク)に過ぎないのだとすれば・・・。
我々は肉体の死とともに、お鍋から灰汁取りによって取り去られてしまう運命ということになります。そして固有のものと思っていた心は宇宙の記憶媒体のアウトプットのひとつに過ぎないのです。
会場で食べた鳥鍋の灰汁を取りつつ、そんなことも考えましたよ。ええ、暇なのです、私

*1:虚空蔵菩薩(アカーシャガルバ)とのアクセスによってコネクトすることができる宇宙の記憶媒体