蓄財は文明

うふふふふふふふ。
京も京都て窓の外で猫が激しくバトルしています。連中は馬鹿ですなあ。富の集積がない生物の世界では実力がものをいいます。で、実力に物を言わせて、その結果何を得るかといえば子孫です。しかし、その子孫が繁栄するかどうかということは彼らの関心の範疇にはなく、再び愚かな牡猫どもはマインカンプの世界へと没入していくわけです。
わが尊敬する伊藤博文公には酒、女、政治という三大愛好物がありましたが、女と酒の部分を食物と考えればまぁ、猫とあまり変わりませんなぁ。ちょっと複雑なくらいです。そこで肝心なのが政治。ここで政治というのはつまり集団を動員して、大きなことを為すアノ力のことを言うとしたら、・・・それって群れじゃん。いけません、ここで大きな力を行使して大日本帝国憲法を作ったり、初代内閣総理大臣になっただけでは群れのボスになって他の奴等をシメるという禽獣とあまり変わらないスタンスになり申す。そこで人間らしさとしての蓄財(ちくざい)が必要なのです。政治によって集まった金で大磯に別荘でも建てたり、故郷の平生町に洋館でも建てようものなら立派な高等生物の営みです。金という仲介者を介在させて事を行ってこそ人間は人間足りえるのです。アレがなければ他の部分がいかに高度化しようが所詮はちょっと高等なチンパンジー。金があって、それを使って個人の平均的な労働能力で得られない分不相応の蓄財をすることこそ人間のもっとも進んだ部分だと思うのです。
実力で物を言わせる、実力優位は一見平等に見えます。しかしその実、人間の能力は門地、環境、遺伝情報で拘束されています。そんな状況で実力主義が平等なのでしょうか。それよりは二代目のぼんくら(猫なんかの動物にたとえればすぐ下位に押し出されそうな)が祖先の蓄財で有利な地点から人生を始められという人間社会の現実は、動物よりもよっぽど平等ではないでしょうか。実力至上主義は悪魔の思想です。私は窓の外で争っている猫には戻りたくない。