すべてがFになる(そういえば森博嗣もFをリスペクトしてたよね?)

「小説や論文やパソパラばっかり読んでると馬鹿になる」と内なるダイモニオンに言われたので、漫画読みました。そうです、健全(マジョリティーと同義)な大人は漫画を読むべきなのです。

「Fは天才だ。Aはそれほどでもない」これは某手塚治虫御大の言葉です。まあ、手塚先生は漫画に関しては嫉妬の鬼なのでこの発言を馬鹿正直に取る必要はありません。A氏が黒澤明の映画を漫画化した「用心棒」は私が好きな漫画のひとつですし、氏の情感(怨念ともいう)あふれるタッチは大好きです。しかし「天才」という言葉をどちらに冠するかと考えれば、それはやはり藤子・F・不二雄なのかなと思います。
F氏のSFには独自の残酷さがあります。これはA氏の「笑うせえるすまん」にみられるような個と個の対立による爆発に対して、個と宇宙の対立によって生じるものといえましょう。Fの作品の登場人物はみな一般的な人間で、彼らに降りかかる宇宙の嫌がらせとでも言うべき出来事が破格なのです。A氏は悪意が解決しやすい形(悪意を振りまく人間への制裁)であるのに対し、F氏の悪意は意思無き宇宙意思(わけわからん)が一人の人間に降りかかり、それに抗うすべはなく、ましてや共通の土俵に立つことなど思いもよらないのです。かれらにできることはただじっとかがんで宇宙の意思が風向きを転換するのを待つことだけです。この巨視的な目で宇宙意思を観じうるFの感性が、彼をして日本漫画界最大のSF作家にした所以と私は考えます。ある意味神に一番近いところにいる漫画家なのかもしれません。(鬼籍に入ったってイミじゃナイゼ)