ドゥルカルナイン

「小説や論文や電撃姫ばかり読んでいるとセンチコガネになる」というデーヴァ、ナーガその他もろもろの鬼神のお告げを聞き、漫画を読むことにしました。

ヒストリエ(1) (アフタヌーンKC)

ヒストリエ(1) (アフタヌーンKC)

高校の図書館にあった寄生獣を読んでから、この人のファンなのですが、今作はいいですね。「人間が生きているときと死んでいるときの違いがない」というのがこの作家の最大のウリだと思います。これは現実的には至極当たり前のことで、お葬式で見た死者や、たっちゃん*1の台詞からもわかるように死人といわれなければ、生者と見分けがつきません。岩明均は両者の質量を区別することなく書くことで、逆に魂の存在に思いを馳せさせることができる稀有な作家だと思います。
予断ですが、「千と千尋の神隠し」でエンディングの「生きている不思議、死んでゆく不思議」という一節がありましたよね。あれ、最初私は聞き違えて「生きている不思議、死んでいる不思議」と聞いていたのです。後で勘違いに気づいた後でも「死んでいる」としたほうがなんだかスゴイな、と思っていました。死者は死んでもそこにいる。生きていることも死んでいることもただひとつの状態(常態?どっちでもいいや)に過ぎないと解釈できるからです。そう、心の中で行き続けるという形而上の世界以外にも「死んでいる」という状態がある世界。中国のように三魂体を離れることなく、死は継続であるという恐怖。そんなのを考えるのが非常に愉しいのです。
で、話を戻します。生と死の表現が特徴的なこの作者は、同じように緩と急の区別もあいまいなのです。急の雰囲気の時に緩であったり、その逆であったり。この微妙な感じは天性の才ないしは人間へのあくなき観察がなければ再現できないし、しようとも思わないでしょう。ドラマの空気ではなく現実の空気でドラマを描いているんですね、この人!
ストーリーについてはまた明日。

*1:タッチの上杉達也のこと