何故、キャラクター同人は筆が進むのか

ハーイミナサンコンイチワ。キョウハキャラクター同人ニツイテ、カンガエテミルヨ!
多くの同人が四大週刊誌*1やアニメ、ゲームのキャラを使ってストーリーを組み立てています。既存のキャラを使ったこれらの小説は、原作以上にキャラクターの個性が掘り下げ(いろいろな意味で)られていて、原作が霞んでしまうこともあります。
しかし、これらの同人作家がオリジナルキャラを使ってストーリーを組み立てる場合、往々にして原作付きの時より上手くいかないものです。これは何故なのでしょう?この問題を解くヒントとして一冊の本を引き合いにし考えてみましょう。

十一番目の志士

十一番目の志士

この作品は長州藩を扱った司馬遼太郎の小説なのですが、この作品の主人公・天堂晋助(てんどうしんすけ)は司馬氏のオリジナルキャラクターです。彼は高杉晋作*2の"晋”の字を取り、おまけに二天一流*3の免許皆伝の腕前です。さらに新撰組の局長と岩国の錦帯橋で戦って圧倒する強さです。
・・・なんか、属性つけすぎてませんか?
司馬氏をはじめ歴史小説家は実在の人物に仮託して、自己の心情や世のあり方を表現していきます。そう、本質的にキャラクター同人と同じ手法をとるのです。あくまで自分から離れて実在する人物だからこそ、史料と資料の隙間に自分の思いをねじ込んでも、くどさや歯がゆさを読者に与えないのです。何故ならそれは自分ではなく、なおかつ自分の創造した存在でもない他者であるから、です。
しかしこのような手法をとり続けた人が、オリジナルキャラクターを前面に出して勝負するとき、そこに作為が浮き上がってしまいます。司馬氏のこの小説の場合、周りを固める人間が実在の人物で、その描き方が天才的であるだけに天堂の特異性がくっきり出てしまい、属性はクドイくせに個性ははっきり映えないものになってしまっています。
かように実在、ないしは他者の創造したキャラクターを動かすときに筆の動きが心地よい場合、まったくのオリジナルを書く際に支障が出てきてしまうのです。キャラとキャラの間の配置(人物相関図)をまっさらな状態から創造し、なおかつその間のバランスを維持する力がオリジナルには必要とされるのでしょう。

*1:漫画ゴラク近代麻雀、冒険王、ガロを指す(ウソ。大部分週間ですらねえ)。

*2:馬面のボンボン兄ちゃん。趣味人

*3:宮本武蔵の流派。二刀流