風呂やのニカイは蕎麦やソバーヤ

私は温泉も好きですが、銭湯も好きです。大きい風呂桶というものは我々の家の小さな風呂と違うギャラクシーが広がっているんです我々の家の風呂桶ではせいぜい一人、ないしは二人の収容スペースしかありません。桶というものは我々が気付かない間に、その生き方を規定します。即ち家族を基点とする生き方が家、その中でもことにプライベートな風呂桶に強く規定されている、と私は考えます。しかし家の桶に収容可能な人間、すなわち家族のみが我々が人生において関わる相手ではないはずです。時には家を離れ、友を離れ、なおかつ繋がっていたいという矛盾した欲望を人は描くはずです。その欲望を満たしてくれるのが他人と入り、それでいながら積極的な関わりをもたないでもいられる、それが銭湯の桶なのです。
まあ、要するに後輩の宇多源氏真言僧、金剛神、フレンドリー、紀ノ国氏らと銭湯に行ったということが言いたかったわけです、はい。