羊諦心は獅子の夢を見れるか

頭に咲く心という花。搾取の花。むしりとれば花の命を搾取し、むしりとらねば頭の栄養が吸われ搾取される。自身でさえこのようなありさま。まして他者との関係においてヒガイシャになるかカガイシャになるか、これは重要な問題ですよ。「右のほおを打たれたら左のほおを差し出しなさい」という言葉が示すように、ヒガイシャであることに甘んじればカガイシャを神の恩寵より遠ざけてしまいます。打つ人もまたヒガイを被ります。つまりヒガイシャに甘んじるひともまたカガイシャたりうるのです。え、何?打ってくるやつは異教徒?その割り切りかたは潔いですね。矛盾しません。しかし、それではえらく了見が狭い神様となります。グローバル化の現代。あなたはそんな神に全てを託せます?
では矢吹ジョーとホセ・メンドーサのようにお互いなぐりあって痛みを共有すべきでしょうか?いやいや、ジョーはそれでも負けました。拳には個人差があります。大局的には同じカガイシャでも被害を数値にすれば、カガイシャ、ヒガイシャと分かれてしまいますね。そこで我思うに砂を宇宙に、宇宙を砂に思う心がけが大切かと。自分のした行為が結果がどうあれ、そこに罪を感じたら事の大小に関わらず反省すべし、等しく。自己の感じる罪を軽重問わず重く受け止め、差を設けないことを徹底し、それが相互になされればどちらも等しいカガイシャになり、双方にカガイシャという概念が消失します。この「等しく受け止める」ということを具現化した姿こそ神なのではないかと。
人が皆等しく、罪という名の神を求めれば、双方同床異夢たることができます。異夢であることは人間ならば仕方ありません。同床であることを自覚し、満足することが重要なのです。そして自己の正義や正当性を神に求めず、ただ罪の発露の際にだけ神を崇める。人間の営意に正しいものなどなく、関係は罪であるとし、等しく自分が他者に対してカガイシャであるという夢が見れれば、彼我をヒガイシャにもカガイシャにもしなくて済みます。
しかし加害妄想教とでもいうべきコレ。蕀どころか悪魔の教えですね。すさまじき奴隷の教え。人間は被害妄想を力にして実際は生きていますからね。だから私は全ての人の心が平穏になる日はこないと確信しています。人皆奴隷の心、羊の心と化さねば。