えらぶものとえらばれるものの差

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

私の好きな哲学者の一人です。ストア派の学者というよりはネロの家庭教師と言ったほうがいいかもしれません。

「パトラッシュ、ぼくもう眠いよ」「ああ、おめえの睡眠薬の量を増やしたからな、今日は」「え!?なんだってパトラッシュ!?」「今日だけじゃねえ、風車小屋に火がついた日も、ジジィが死んだ日も、おめえ、眠くならなかったか?」「あ、ああ?そういえば。まさか、パトラッシュ・・・お前が!?」「いまさら気づいてももう遅い!!」そういうとパトラッシュはネロの首筋に鋭い歯牙をガブゥ!!
フランダースの犬 最終回より抜粋

・・・ちなみにこのネロではありません帝政ローマのユリウス・クラウディウス朝の皇帝でペテロやパウロを殺した人です。まあ、この人の家庭教師兼政治顧問としてバリバリやっていたのですが、通説ではセネカによって舵取りが行われていたネロの治世の前半は名君として通っていたそうです。
しかしセネカとネロは分けて考えられるのでしょうか?セネカの属するストア派はストイックという言葉が示すとおり精錬された生を求めます。そのためあらやる苦難、忍従は己の心の持ちようによって耐えられる。外界の伝聞、流行に流されることなく己がじしの意思で行動することの重要性を説きます。
しかし、真にストイック足りえるのは「ストイックたることを望むもの」であって「ストイックたることを望まれたもの」ではない、と私は考えます。セネカは自身の思想をネロに叩き込んで理想のストア派君主*1に仕立て上げようとしたはずです。しかしそれはセネカという外界からの意思であってネロ自身の趣向ではなかったのではないでしょうか。そしてセネカによって造形された賢君・ネロはストイックな自己抑制の逆噴射として後代の暴君・ネロと化し、デュオニソス的饗宴を演じて自滅していったのではないでしょうか。セネカもそのあおりをくらってネロから自死を宣告されます。この時腕の腱切断による流血という緩慢に訪れる死を、堂々とした態度で迎えたから、後代に知行合一の哲学者として受け入れられたのでしょうね。もしそうでなければ「ネロを作った男」としての名のほうがクローズアップされたはずです。しかし、私はやはりストア派は「望んでなるもの」であって「望まれてなるもの」ではないなぁと思います。ネロのように鬱屈するでしょうから・・・。

*1:マルクス・アウレリウスアントニウスみたいな感じに。まあ、あれも「グラディエーター」見たらわかるけど息子(コモンドゥス)が派手にグレたしなぁ。