捕食説明

私たちは人を食って生きています。いや、その、カニバリズムの話ではありません。奇麗事風に言えば影響しあって生きているのです。このことはどうあがこうが消せない事実で、例えば「私は貝になりたい」と言って、その手は桑名の焼き蛤*1になったとしても、あなたを産んだ母や父、これまでの友人や知り合いたちはあなたが貝になったことを知らずに必死に探し回り、警察に行方不明届けを出し、その帰りを数十年くらいは根気よく待ったりもします。あなたが焼き蛤となって食べられていることも知らずに、彼らはあなたのために人生の一部分、人によっては大部分を消費し続けるのです。
かように人は生まれてある程度を過ぎれば、生きていようが死んでいようが他者の一部分を食らい、他者の心の中に生きているのです。人情紙風船といえども紙風船のように流れていけないこの世界。それこそが薄情よりも非情よりもなによりも恐ろしい。そしてその人情はあなたとかけ離れたあなたであっても受け入れる泥沼のような温かさ。私の好きなMY LITTLE LOVERの歌詞にこんな一節があります
「あなたがもしも いないとしても ずっとあなたを おもっている」
私がいなくなっても、私自身が知覚しなくてもなお愛される“ワタシ”。一見天国のように見えますが、これ以上ない幸福のように見えますが、本当にそれを信じていいのでしょうか?これが愛という名の牢獄である、と考えはしないのでしょうか?100パーセント肯定されることが本当の幸福なんでしょうか?絶対の肯定の中に自我は入っていけるのでしょうか?そしてなによりかにより、それは自由とはまったく正反対なのではないでしょうか。
だからって自由という言葉に絶対の信が置けるわけでもないのですけどね。ああ、救われない。ムチという名のご褒美がなければ救われない、アメという名の拘束がなければ救われない。愛と自由の狭間でなければ生きられない。*2

*1:決まり文句。ないしはウィットに富んだ会話。お仲間に「恐れ入谷の鬼子母神」がある。戦後日本人が失ったものの中でもっともイタイものがこれだと私は思う

*2:ここでの愛は西欧世界の概念ではなく仏教の“愛欲”に近いのかなと思います。