1.学者の息子
今改めて思い出せばほぼ全員そうです。監督作品とはいえないまでも、デビュー作であるアトム*1をはじめとして、アムロ・レイは酸素欠乏症のガンダム開発者テム・レイの息子ですし、コスモ・ユウキくんも一話であっさり死んだ考古学者の息子です。ほかにも教育学者(ショウ・ザマ)やらバイオ研究者(シーブック・アノー)やら、近年のキングゲイナーにいたるまで、主人公のほとんどが学者の息子ということになります。そうでなければ孤児(みなしご)です。
この主人公の出身家庭の偏向は、富野作品の主人公に独自の影を落とします。内向的や、攻撃的であるなど対人関係をうまく取れない主人公像です。その証拠に、孤児やブルーワーカー、王族の息子はバリバリ周囲と馴染んで、リーダー的素質を発揮しています。(孤児・・・ジュドー、ブルーワーカー・・・ジロン、王族・・・ダバ、)これは学者家庭での放任主義という名の子供への無関心が原因と思われ、そのことをあげつらって吠え立てるカミーユやショウの例が明確に示しています。
何故、かように学者の息子が主人公という傾向が続くのでしょう。私はここにロボットアニメに対する皮肉を感じます。従来のロボットアニメでも主人公は学者の息子かその関係者です。これは子供がロボットの操縦者になるという不自然さを解消するためにやむなく行われた措置であると考えられます。しかし、富野作品はその影響を人格形成にまで及ぼしました。研究者に育てられた「歪み」とでもいったものをお約束の中に紛れ込ませています。この「ロボットアニメのお約束」を逆手に取るという点は富野作品を考えていく上でのポイントになるでしょう。

*1:ロボットだが天馬博士の息子として育てられた