無私・滅私

無念夢想。アメニモマケズ、カゼニモマケナイデクノボウ。こんなものにはわざわざ人間がならなくても、案山子を立てとけば事はすみます。人間が無私、滅私をするのは目的を果たすためであります。その心で行けば、人は自分の力以上の効果を発揮するからでありましょうが、少し考えてみましょう。人の持つキャパには限度があり、無私を行えば、作業能率の向上の分だけ他のことがおざなりになります。そういった目配り、気配りができない滅私人間を囲い込んで作業に専念させうるのが資本主義の素晴らしい点であります。無私人間を安定させ、型にはめ、生活保証をしてくれる現代の揺り篭。我々は滅私に生きようとすればそれだけ社会に依存せざるを得ないのです。
かように目的のための無私・滅私は歯車への一歩、他律タラボリツへの一歩です。まあしゃあないことなのですが、別に誇りになることでもありません。現代の滅私奉公は誰かに寄りかかってでしか実現できないのですから。その“奉公”する対象を選ぶときのみはエゴイストでありたいものです。