自縄自爆

我々は自分という籠から抜け出せぬアワレナ小鳥。いくら他人と比した優位性を主張しようとも、所詮は籠の小鳥。自慰行為を越えることはありませぬ。
そんな中でも、己の正当性を神や仏に訴え続ければ異端のなげきを受けまする。「誰に?」「自分自身に決まってるだろ」それが自縄自爆への道。
でもそれが無駄というわけではありません。人は花火が見たいのです。他人の火遊びが見たいのです。自分を煮積めたにんげんどもが沸騰して、破裂するさまを残壕の中からポテコを人指し指でくるくる回しながら眺めていたいものなのです。哀しいかな、自分がそうだとも知らないで。
とにかく「人のふり見て我がふり直さずそのままアパパ」が皆さん大好きなのです。そして自縄自爆したそれらの人間を見つめる我々は、自分の背中で点滅しているカウンターを無視して生きていけるのです。そして哀しいかな、嬉しいかな。その鈍感さ。冷酷さ。それこそがたぶん「救い」とイウヤツです。「さびしからずやみちをとくきみ」それに気付くものはいつも寂しい。それに気付かぬものを寂しさの道へと引きずりこもうとするから。別に何もかわらないのに。「よはなべてこともなし」
与謝野の姉さん*1みたいに情欲でもて語るほうが正解かなとおもうてしまう今日、この頃です。

*1:鞍馬寺の和尚に師事しながら釈迦と阿弥陀を間違える人。まあささいなことですが