ヘルシングと信仰

何となく気になったので書いてみます。

HELLSING 8 (ヤングキングコミックス)

HELLSING 8 (ヤングキングコミックス)

ええ、ここで考えたいのは、マックスウエル*1みたいに私怨と信仰をごっちゃにするようなオポンチな人についてではなく、アーカード*2アンデルセン*3。はたまた少佐の真摯な「信仰」のあり方についてです。
本巻でアーカードの信仰について本格的に語られましたね。アーカードが己を神の道具だとし、「神に縋るのではなく、神のためにただ血を流せ」と主張します。カルヴァン派の発想ですね。個人の善行、功徳とは関係なしにあらかじめ救われる人間は決められており、どのような努力をしようとも神は予定されていないものを救おうとはしない。という予定説に立つカルヴァン派の教義では、人々の祈りや嘆き、それ自体は人を救うことはありません。いえ、努力によってすら救われないかもしれないのです。このような逃げ道のない世界で人はただひたすら、当てのない救いを信じ、逃げ場のない己の信仰を邁進するしかありません。例え化け物になってでも。アーカードは理想のカルヴィニストです。化け物であろうとも。*4
旧教徒(カトリック)側のアンデルセン神父もこれと同じ考え方をしているのは興味深いところです。彼は自身を神の武器として神のために己を捨てて仕えるあり方を取ります。これは修道院の苦行に近い部分から派生しているのでしょうが、管見の限り、彼らの敵・新教徒に近い発想だと思うのです。まあその為に贖罪不可能な存在であるユダに己を託した「イスカリオテ」機関なのでしょう。平気で特攻かけるような背教者は、自らを最初からユダと決め付けることでその責任からたくみに逃れているのです。こちらも予定説ではありませんが神からの救いは期待すべきもありませんね。教会の贖罪を自ら否定するところが、逆に彼らの憎む新教徒に近づいているのが滑稽であります。
さてそんな信心深いアーカードと、始末に終えない確信犯背教者のアンデルセンですが、彼らと同じキリスト教圏に生きる少佐*5のあり方が私には一番興味深いところです。彼は神を機軸に考えている前二者と違い、救いのない事こそを救いとして生きています。目的や理想などのお膳立てを次々と切り捨て、闘争のための闘争を行くそのさまは狂信的なように見えてその実、何も信じていません。ナチズムすらフアッションでないかと私は思います。神経質、煽動、秩序への意思や大衆の人気取りといったナチ指導者のコセコセとした要素は彼には見られません。ただひたすらに祭儀を、己すらを供犠にさらして祝祭を楽しむ彼は、秩序(オルドヌング)を愛するナチズムやドイツ的なあり方から離れ、さながら南方のディオニュソス的な明るさがあります。少佐が小太りなのもかの神*6の姿を彷彿とさせます。
こうしてみると己の信仰や文化に一番忠実なのはアーカードということになりますね。アンチヒーローなのに信仰とその発露がまっとうであるというのは、皮肉かつ微笑ましいことです。

*1:カトリック大司教。教父に背信を指摘されあっさり自滅

*2:ドラキュラ。ヘルシングの主役。最近眼鏡かけてないねどうした?

*3:カトリックの神父。何故か死なないアーカードのライバル。声は野沢那智若本規夫で悩むところ

*4:ただしアーカードギリシア正教と考えるとこの説はズレてくる。まあイギリスの守護者だから新教徒的であるということで手を打ちましょうよ、クロムウエルもバリバリの新教徒だし、ねえ

*5:ナチズムの名の下に戦争を楽しむ小太りの男。そういえば部下のドクの眼鏡ってモチーフ「カリブゾンビ」だよね?

*6:ディオニュソス