科学の神が支配する。しかし圧迫はしない

最近は天を仰ぎて嘆息し、がらがらがらがらうがいをするマントラプリです。コンバンワ。この頃は夜の闇も深く、心にざわざわとした不安が沸き立ちます。さて、そんなことはおいておきまして、神宮大麻を買い替えました。これは伊勢神宮でのみ売っている大麻で、一週間に一回買い換えないと幻覚症状を発し、汗腺から汗がニョロニョロと湧き出し、息が荒くなり、皆が自分を殺そうとしているような気分になります。ちなみに内宮がアップ系で、外宮がダウナー系です。
・・・嘘です。いつもの如く皆さんを謀りました。そんな危険なものは伊勢では扱っておりません。ただの御幣です。私のマンションの神棚に飾ってあるのですが、期限は一年です。神様は電池みたいなもので定期的に充電したり、交換しないと霊力みたいなものが切れてしまうのです。ここらへんは一回作ったらメンテナンス以外は無期限の寺院とは違うところですね。だから神像*1というのはちょっと本来の神道の方向からは違ったものになります。トーテムですら長い間使っていると霊力は薄れていくので、そこんところは神仏習合によって仏教側の補正が働いているのでしょう。神は寄り付くもので、モノ自体が神ではないのです。不定形の魂のようなものがフラフラフラフラしつつ寄り付き、顕現する。いわゆる「ツイてる」というのも、語源はいい傾向のモノが寄り付いているということでしょう。逆に「憑いている」と表記するとダウナー系の何かが寄り付いている状態になります。
つまるところ日本のアニミズムは厳密には物神化ではなく、遍歴する何者かが立ち寄ることなのです。神社にしろ遍歴するモノがより易い場所を示すマーキングの役割が本義であって、建物自体はあくまで目印に過ぎないのです。この観念は日本人の精神形成に深い影響を及ぼしており、我々の精神や自我といったものも肉体に固着しきったものではなく、フワフワ浮いて移り変わるものなのです。「女心と秋の空」というやつですな。一度感じた心は、二度と帰らず。二度目の経験は一度目の経験とは違ったものになっているのです。
かといって肉体がベースになりうるかというとこれもまた違いますね。肉体もまた、定期的な更新を必要とします。捕食、排泄、を繰り返すうちに、肉体は新陳代謝を繰り返し、芽生えた「胚」のころの自分の痕跡はすっかりなくなっているのです。では、我々を我々と規定するのは何か?それは他者との交わりです。それらが擦り合わされるときに起きる摩擦が我々の実存なのです。まあ文字通りの和合や敬愛、他者への思いや行為が我々の生を規定し、補償する唯一の「実存」なのです。きわめて科学的なんですね、アニミズム。怜悧(れいり)です。かつ、感情的なのです。心地よい眼耳鼻舌身意*2(げんにびぜつしんい)を経験するために社や霊地に参り、その感情を記憶した御幣や大麻、お守りを持ち帰るのです。それ自体の持つ霊力もさることながら、「買う」「祭る」という行為自体が、経験を想起させ、そのときの感情に極めて近いものを追体験させてくれるのです。
祈りとはボイスレコーダーのような再生装置でもあります。

*1:神様の像

*2:六根。人間の感覚器官、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、意識のこと。仏教ではこの上末那識(まなしき)、阿羅耶識(あらやしき)、アマラ識がある。つまり感覚世界にただ流される生を許してくれないんですね。仏教は