「生まれ生まれて生の始めに冥し」しかし悪ではない

最近、読書スピードがめっきり遅くなって困っております。昨日、三ヶ月ほどかかった本にようやくケリをつけました。

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

あー長かった。注釈までコセコセと呼んでいたのでずいぶん時間がかかりました。マックス・ヴェーバーといえば社会学の大家でありまして、私がコーナーでよく話題にしておりますワイマール期のドイツ映画ですが、そのワイマール憲法の起草に関与した人物でもあります。
内容に関して要約すれば、「近代資本主義社会における富の追求のあり方は、淵源をたどれば禁欲を説くプロテスタント諸宗派(主にカルヴァン派)にその淵源が認められる」といったものです。まあ、要約しすぎなんですが、なんともいえない皮肉なお話です。ここでの富の追求とは「金持ちになって楽をしよう」とか「一生土地や資本の上がりで暮らしていく」ための追求ではなく、「神に奉仕するため」の追求なのです。したがって、金を得たいがために働くという拝金主義が動機ではなく、神への証を己が出来る手段で立てるということが動機となります。その為、労働に制限が無くなり、働くために働くという檻に囚われるうち、本来の目的であった道義的な意味は消えうせ、檻の中に閉じ込められている状態が現代の世の中であるということをヴェーバーは語っています。うーん我ながら適当な要約だ。
私が一番興味深かったのは、「憎むべきものは、それを最も憎んでいるものが生み出す」という皮肉な結果です。我々が良かれと思って創始したものは、末代に及び道義的な意義が失われた枷に変貌してしまうのです。今でも我々は、将来を拘束するための枷を、その正しさを信じて作り出しているのです。この世界からは逃れることが出来ないでしょう。それが火を扱いだした人間の宿命だからです。火を使い出した猿とて、まさかこの火が鉄の塊を人体に運ぶために使用されることになるとは思っていなかったでしょうから。
しかし生み出された「装置」を絶望を持って見続ける考え方には私は首肯しかねます。装置を生み出し続ける我々に思いも及ばぬような害悪を末代の人々は考え出しますが、同時に思いもつかぬような利点をも人々はそこに見るのです。「装置」が有象無象に欲望のまま使い倒されるということは「憂い」を生み、かつ「救い」を生むのです。それらを己の解釈で数値化して、「文明とは堕落だ」とか「原始状態は野蛮だ」と議論をするのも愚かな事。我々は常にあらゆる善悪意を持って、装置を使い倒しつつ、次の装置を生み出すのです。そのこと自体に悪はありませんし、世紀末もありません。そういう「モノ」なのです、我々自身も。そこに「救い」を汲み取れない人間はただただ影に怯えて暮らしていれば結構。そこに「悪意」を見るからこそ、私は逆にいや、それだからこそ「善意」を見ることが出来ると考えます。