ルサンチマン

昨日は汚い言葉を吐きつつ終わって申し訳ありません。私としましては「ようやく私小説的な雰囲気になってきたな」と書きながら思っていたのですが、私小説というものは「私」といいながらも「虚構」の仮面をかぶらねばならぬもの、感情むき出しの戯言とは少し違います、推敲というものが必要です。
ルサンチマンな気分はニーチェ禅師の禁ずるところです。己一人で己一人のふがいなさを何者にも寄りかからず、異民族のせいにもせず、神仏のせいにもせず、世間のせいにもせず、延々延々ダラダラだらだら悩むに関しては多分良いのですが、そんな強い人間はあまりいません。大抵は原因を恨み、結果を恨み、親を恨み、親類を恨み、異民族を恨み、神を恨むものです。根拠に依拠することなくしてはルサンチマンを維持できません。
春秋はルサンチマンを生み出します。私がこの季節を嫌うのは、私がルサンチマンに偏りがちな人間だからです。ニョロニョロと妄念に取り付かれているとき、心地よい季節がそれをバックアップする。それは逆に不快です。いくら自分が妄念の中に生きているとはいえ、そこまで甘えたくはありません。自分の妄念は自分一人のものであり、それが保障されたり、尊敬されたり、そういうことは、それは良いかもしれませんが、そう思ってしまうほどに危険なことだと意識します。
流れは流れるままに流れるから流れなのではなく、塞がれ、せき止められ、溢れ出すから流れなのです。抵抗勢力あってこその流れなのです。私は自分の最も嫌う人間に生かされている。私は自分の考えが世界に貫徹されないことによって生かされている。不如意によってこそ如意である。ということです。
・・・マゾなのでしょうよ。要は。