あっちの空想とこっちの空想

父と奈良の正倉院展に行ったのですが二時間半待ちに退いて辞めました。ディ○ニーかよっ!!
結局奈良ホテルに侵入。泊まりもしないのにコーヒーだけをがぶ飲み、外観をパシャパシャ撮って離脱です。その後は辛口で有名な春鹿を販売している今西清兵衛商店にゴー。といっても酒は飲まず、おうちである今西家書院を見学。この建物は室町期の住宅建築の遺構で入り口の唐破風の湾曲具合もまだ緩やかです。私の知っている唐破風でもっとも初期のものは大阪・観心寺のカリテイモ堂*1なんですが、それより古いものをご存知の方はご一報を。神社の庇に付属していたものが、住宅の貴人用入り口にも使用されるようになり、それが切り離されて桃山期以降の唐門になると個人で勝手に思っているのですが、正しいのでしょうか?教えて紀ノ国くん。*2父は一本のレールを通る猫間障子(ねこましょうじ)というものにしきりに関心をしておりました。
その後は私の行きつけの観そばでにしんそばを食べました。父は蕎麦打ちのセミプロなのでなかなか煩いことを行っていました。父の見立てによるとここの蕎麦は六割そばだそうです。昼食の後は正倉院展の遺恨を晴らすために正倉院へ。ああ、紛らわしいな。倉のほうですよ。私も行くのが初めてなのでその大きさに圧倒されました。法隆寺唐招提寺のようなものを創造していると痛い目を見ます。巨大です、縦にしたらビルディングとしても十分いけるほどのでかさです。ここでも写真をぱしゃぱしゃ。父はカメラ小僧らしく、基本はファインダー越しに景色を見ています。義体化やロボトミーは近未来を感じさせると同時に、人と非なるものへと人を変えますが、父のようなカンジなら眼球にシャッターを組み込む改造をしてもいいかもしれませんね。便利そうだし。
正倉院の後は転害門(てがいもん)を通って近鉄奈良駅へ向かいます。この転害門一帯は大和鍛冶である手掻派(てがい)が居住し、刀工を行っていました。何振りか国宝になっているのですが、家に帰らないと細かいデータがわかりません。教えて、紀ノ国・・・(以下省略)。そして現在のここの地名は手貝(てがい)。皆転害門が訛ったものなのですが、漢字表記が違って紛らわしい。こういうとき「歴史の重さとは、伝言ゲームのいい加減さ」だと実感します。
その後は西ノ京へ移動。大池をから薬師寺の塔を望んだ後、てくてく歩いて薬師寺へ。山口県長島にある父の実家には薬師寺中興の祖・高田好胤管主の繰り広げたオアシス運動のポスターが何故か貼ってあります。今年死んだ祖父に生前尋ねたところ、高田管主の講演会に行ったことがあるそうです。何かの縁を感じさせる話ではあります。そういうことで薬師寺の新しさは再建の成果であることを説明。あと仏足歌碑と万葉仮名について説明。私も六年ぶりに行くのでなかなか感慨深いものがありました。講堂が再建してあったのと、南京三会の薬師寺最勝会を行うための講読師の座が再建されていたことに感動しました。薬師寺は確実に古代の姿を取り戻しつつあります。
薬師寺からは何故か大安寺方面まで徒歩。平安京の西寺、東寺が対応するように薬師寺、大安寺も東西に対応して建っているので、両者の位置関係と距離が把握できて面白かったです。まあ、大安寺にはいかず近くの天然温泉に入るために歩いたのですが、図らずもそういう結果になりました。一風呂浴びつつ、サウナと脳梗塞の関係を父から聞きつつ風呂で過ごし、近鉄で京都へ。
花見小路にある、とんかつばばあ先輩から薦められた侘屋古暦堂で鳥を堪能しました。レバーがこんなにおいしい食べ物だとは思わなかったです。びっくりです。食べながら父とまあ四方山ごとを話しました。私と父は想像の世界へ入るという所で性質が一致しているのですが、父は現実を材料に想像する空想家であるのに対し、私は非現実を材料に空想する妄想家という違いがあります・・・。現実に即した空想と、現実に即した行動ができるという点で私は父を「優秀な軍曹」だと考えています。例えはわかりにくいですが、将校のような大局観ではなく、現場に即した想像力と行動力を持ち合わせているということです。これは父の今までの人生で培われ、育まれた美点だと思うのです。今回そのことが再認識できたことが一番実りあることでした。自分の生き方、自分の「想像」は父の年齢には子からどのように見られるのか・・・。現実であれ非現実であれ、それが自分にとって恥ずかしいものでなければいいのですが・・・。

*1:漢字変換がめんどくさいのでカナ表記

*2:後輩。鹿鳴館の中で文化財指定物件の個別把握を最もしているであろう人間