生まれ生まれて、死に死にて

「ハッピバースデーツミー。ハッピバスデーツーミー、ハッピバースデーディアマントラプリー。ハッピバスデー罪ー!!
という、去年と同じネタ。また一つ齢を重ねてしまいました。誕生日っていつから苦痛になるんでしょうね。坂道の下りが見えた頃でしょうか?それとも、自分の身の丈を理解したときでしょうか?
ケーキにジュース。それからプレゼント。原色に彩られた誕生日会。イベントとセットにすると、誕生日は陽気になれます。でも、イベントがないと、ある場合の光景と比較して陰気になってしまうのです。
要するに、我々は誕生日そのものを楽しんでいるのではなく、誕生日と言う名目でできるイベントを楽しんでいるのですね。機械仕掛け、デジタル仕様でない人類は、特定の日を迎えたからといってドラスティックに変貌するわけじゃない。プログラムはされているけどゼロとイチには振りきれない。ようようと、ゆるゆると、気づかぬうちに事は進み、体は崩壊へと向かっていく。始めから明確に予定されたイベントというのは「死」だけなのです。
それを知ってか、知らずか・・・、いや知っているからこそ誕生日というイベントが開かれます。ケーキやジュースに取り囲まれながら、恋人と夜景を見ながら、子供や孫たちに祝われながら。自分という取るにたらない、でも掛け替えのないデータの証としたい。誕生日のイベントとは、その実「死」への準備なのかもしれません。それを自覚する年齢になったとき、この日が苦痛になるのでしょう。
我々の生は実に色濃く死と結びついていると、思います。だからこそ、
「誕生日おめでとう。自分」