キャラ萌え二重構造論

昨日、「犬神家の一族」を見てきて満足した後、ネットで散々叩かれているのを見て、落ちこんでいるマントラプリです。おこんにちは。
前作を見たのがはるか昔なので記憶に薄いのですが、最も大きかった批判が「前作となんも変わっていない」「撮り方が古い」というものでした。私としては技法とかはどうでもよく、加藤武石坂浩二に萌え狂っていたので気になりませんでした。むしろ「三十年という歳月を経たひいきの役者を見に行く」という意識の方が強かったのです。
で、ハタと思い至りました。映像メディアのキャラ萌えは二重構造であるということに。話としてはなんということはないあたり前の事なのですが、物語の歴史に根深く食いこんでいる要素なのです。まあ、お聞きあれ。
我々は映画を見る際、しばし役者に注目します。今回のケースで言えば加藤武であったり、石坂浩二です。しかし、金田一シリーズの場合はシリーズものという事もあって、彼らが演じる等々力警部であり金田一耕助を同時に期待するわけです。つまり役者を見に行くのと同時に、役を見に行く事になります。両者の境界は難しいものがあります。例えば金田一の原作が好きな人の場合は役を通して石坂浩二を知るということがあります。逆も然りです。どちらに注目しても良いし、また両方に注目する事で関心の幅が広がります。役と役者の二重構造はアニメにも当てはまります。キャラと声優です。声優個人に関心があって作品を知ることもあれば、その役を通して声優を知ることもあります。
このキャラないしは演者を導入として芝居を見るのが本来的なものであって、筋を追うのは実は二義的なものなのではないでしょうか。例えば歌舞伎や能は演目そのものよりも、それを演じる役者や描かれているキャラクターに聴衆の関心が占められています。能は筋がある程度フォーマット化されていることもあり、その要素はより濃くなります。勧進帳見てても「弁慶萌えー」「松本幸四郎萌えー」と言うことはあっても、「筋立てがヤラセっぽいよな」とか「富樫ヌルポ」「弁慶×義経カップリングはアリエネー」*1などの前提(脚本)を議論する事はありません。それは多分野暮です。車寅次郎*2の言を借りるなら「それをいっちゃぁおしめえよ」。聴衆は筋を追う為に芝居を見るのではなく、筋は踏まえた上で御馴染みのキャラ(弁慶、義経)をどう盛り上げるか、役者がどう演じるかを見に行くのです。
我々日本人の芸能はキャラ萌え、役者萌えを前提としており、アニメや映画においてもその伝統は生きています。角川によるメディアミックスが成功したのも、キャラを中心におく日本的伝統があったればこそです。
だ・か・ら、
「いいじゃねぇかよぅ。古くったて、変化なくったって!オレはキャラ萌えで見てるんだよ犬神家!!」

*1:勧進帳においては女形義経役に回るので、腐女子でなくともカップリングを想起してしまう業

*2:いわゆる一つの浮遊の民。権威なき水戸黄門とも言う