すみ から すみ まで

昨日は友人の甚三郎くん(仮名)と鍋をしました。キムチ鍋をひたすらムサムサ口に運んではよしなしごとを話したり、イデオンを見たりしました。アレですね。若いころはストレートなものが好きでしたが、年を経ると生臭いものが好きになりますね。単純な味に飽き足りなくなると言うか、なんというか。昔はアレだけ嫌悪していた魚も、今なら頭からムサムサ食べられます。
こうやって嫌いなものが好きになるのは果たして進歩といえるのでしょうや?「嫌いなものはキライ」「好きなものはスキ」とはっきりボーダーラインを引いていた方が人間は動きやすい事もあるでしょうし、それが好ましく映る事もあるのではないでしょうか。「嫌いなものとの和解」が自分の枷になる。我々は偏見を抱いてこそ初めて自由なように振舞える、いや、振舞った気になれると思うのです。偏見を抱いたまま邁進する人間に対し、忠告したり、諌止したりする我々は、口では「その人のためを思ってやっている」と言いながらその実、かれらにある種のやっかみを抱いているのではないでしょうか。我々は元々偏見より生まれ、より矮小化された偏見へと堕ちていく。そんな自分の矮小さが分かる故、己を相対化せざるを得ないのではないでしょうか?ソクラテスが「無知の知」を自覚させるとのお題目をつけ、人々を論破した行為も、こう考えるとやや後ろ暗いものに見えてきます。「理性」とは我々の思っているほど大手を振って歩いているものではない。多分。