コンバット加賀2

えーっと、今回の旅の最終目的地である北前船の本拠地・橋立(はしだて)に触れる前におさらいを。
「越の道つ国(越前、越中、越後)の旅と銘打っておきながら「コンバット加賀」とタイトルがなっているのは何事か?」という疑問が皆様にはあると思います。これにはわけがございます。現在の北陸四県(福井、石川、富山、新潟)を古代の行政区画に当てはめると、
福井・・・越前、若狭
石川・・・加賀、能登
富山・・・越中
新潟・・・越後
となります。若狭は北陸道の行政区画に入っているものの官道として直接東北に行くルートからそれているので含みませんが、他の国は越の名をその中に含み、都からの遠近によって前、中、後の名前が振り分けられています。ではその中で加賀と能登だけネーミングセンスが違うのは何故か?
加賀は元々越前の中に含まれており、弘仁14年(823)に越前国から江沼、加賀郡を割いて加賀国となったのです。能登も同じで養老2年(718)に越前国から羽咋能登、鳳至、珠洲の四郡が分置され、能登国となったのです。こちらは天平13年(741)に一度越中国に併合されているのですが、天平宝字七年(757)に再度分割されました。前々回で触れた大伴家持国司として赴任した時代はちょうど越中能登を含んでいたときであり、巡検の際、能登半島の先端である珠洲から船で国府に戻っている事などからもその時の越中の版図が伺えます。また雨晴海岸から望む能登半島立山の景色はまさに最大期の越中一国を見渡せる眺望であり、家持がこの景色を絶賛したのも、越中という国の大きさを実感できる景観だったからにほかならないと私は思います。
・・というか、昔の越前はでかかったのでアリマス。まあ、越中も大宝2年(702)以前では越後の四郡を含んでいましたし、越後に至っては和銅1年(708)まで出羽国を丸々版図に含んでいたわけでアリマスから越の道つ国の大きさがわかろうというものでアリマスな。関東地方でこのような郡の分立が盛んにおこなわれなかったの、越の道つ国が東北経営の要であり、パイプラインだったからでアリマショウ。東海道や関東が越に負けぬ重要な意味を持ち出すのは平将門以降、源頼朝の如き東国武士の勃興を待つしかアリマせんな。
はあ、急にアリマス口調になったのは話が「コンバット越前」になったからでアリマス。つまるところ加賀国は八世紀までは越前。したがってここからは口調もコンバット越前と同じになるわけでアリマスよ。ということで、結局話は明日までずれ込む羽目になったでアリマス。