節分2

で、昨日の続き。
どうも法隆寺の鬼は方相士の零落する前の姿に見えるんですね。
なぜかというと
① 完全に鬼になったにしては服装が立派。
② 火祭りの儀式を行っている。
③ 子供の先導を受けている。
まず①から。他のところでの節分では鬼の衣装は裸にトラパンなんだけど、ここでの鬼は中国風の服に身を包んで立派なんだよね。それに毘沙門天に追われてるといっても悠々とした動きをしていて緊迫感がない。
②この修二会では火を持った鬼がそれを来客のほうにぼっかんぼっかん投げるんだ。これは一見災厄をばら撒いているように見えるんだけど、二月堂のお水取りを見てみると分かるようにおたいまつの行は清めであって、火は災厄の象徴ではないんだよ。同じ悔過行から発生して火の意味合いが変わるとは思えない。となるとそれを奉じる鬼は果たして疫神となった後の零落した姿なのか・・・。疑問が出てくるね。
③この修二会では、鬼は子供による先導を受けて登場するんだ。中国で行われていた鬼追いの原型の大儺では侲子(ふりこ)という子供が方相士の後に続いてやってくるんだ。これが共通したものかは分からないんだけど、一応可能性として。


これらを総合して考えると、法隆寺の鬼は悪鬼、疫鬼になる前の方相士の姿をとどめているように思います。しかしそうなると毘沙門天の意味は分からなくなるし、なぞだなぁ・・・。