東京湾大決戦 三章

さて、猿島から本土を望むと、横須賀市街の背後に緑の丘らしきものがちらほらと見えまする。

ここは平安〜鎌倉時代の武士団・三浦党の本拠地があった衣笠山で御座います。私、このたびの旅において無聊をかこつ為、源平の合戦について記された一冊を携えて参りました。

日本外史 上 (岩波文庫 黄 231-1)

日本外史 上 (岩波文庫 黄 231-1)

何で岩波文庫の表紙ぐらい完備してくれないんだ!いっつもいっつも。
本来なら吾妻鏡でも見るべきなのでしょうが、まあ幕末のベストセラーということでこちらを選びました。で、この三浦党。1192作ろうの人・源頼朝の挙兵に際して一族を挙げて付き従います。当時の武家社会は敵味方に別れ親子相食む様相を呈しております。頼朝の父・義朝も保元の乱では父と戦い、自ら処刑しております。また頼朝に従うことになる武蔵の畠山重忠宇多源氏佐々木高綱も父兄弟に分かれて争うことになります。そんな中でも頼朝の外戚である北条氏や今回述べる三浦氏は一族総出で頼朝をバックアップする体制を取っていました。この二氏が鎌倉幕府の要職を占めていくのも一族郎党引き連れてバクチを打ったところが大きかったのかと推測されます。
で、初戦の石橋山の戦いで敗退。見事バクチがはずれます。頼朝は真鶴から命からがら海路にて房総半島へと逃れます。その場所は二日目の行程で再び触れます。で、悲惨なのは三浦党の皆様。このころはまだ敵だった畠山重忠に攻められ衣笠城は落城、一族総代の三浦義明は八十九歳の高齢にもかかわらず奮戦して一族を逃し、死にます。で、一族の三浦義澄や和田義盛は船で房総半島へと落ち延びるのです。
房総半島で三浦一族と頼朝は再会します。義澄は涙ながらに父・義明の死を語り、頼朝も石橋山での手ひどい敗戦を語り共に嘆きあいます。で、感動の再会のところに空気の読めない人が一人、和田義盛です。
「ビービー泣いたってしょうがないっスよ。再会できたんだから今後のことを話しましょ。「メシを食べるにはお皿が必要」っていうでしょ。そういえば藤原忠清って人は士所別当(さむらいどころべっとう)って役職についてるみたいですね。これって関東中の武者に命令できるらしいんす。いいなぁ。もし源氏再興が為ったら、オレこれに任じてください。いいですよね?」
本文はもう少しかたっくるしいんですが、ニュアンスはこんなカンジだと思います。まったく空気が読めてません。坂東武者は精悍だともっぱらの噂ですが、こればかりは少し天然が入っているように思われます。でも、なんかカワイイ。石橋山の敗戦に凹んでいた頼朝も義盛の天然っぷりに癒されたに違いありません。後に和田義盛鎌倉幕府の初代侍所別当に任じられることになります。和田義盛天然に救われた恩を頼朝が忘れていなかったということですね。ここらへんのキュートさを見たければ竹宮恵子氏の「吾妻鏡」がお勧めです。ネクラな北条義時梶原景時、カッコイイ畠山重忠も堪能できますよ。
吾妻鏡(上)―マンガ日本の古典〈14〉 (中公文庫)

吾妻鏡(上)―マンガ日本の古典〈14〉 (中公文庫)

ただし和田義盛ヒゲ面です。
侍所の職は室町幕府にも引き継がれ、四職(山名、京極、一色、赤松)がその任に就きました。応仁文明の乱で衰退するまで武家政権の役職として強い影響力を持ち続けました。その端緒がこの発言というのも、面白いです。頼朝の死後、三代実朝の時代に和田合戦によって和田義盛とその一族は滅びます。三浦本宗家も宝治合戦によって滅ぼされ、鎌倉幕府の権力は北条氏の手に握られるわけです。そんな三浦一族の回天のきっかけとなった房総半島への渡海。その故事にあやかって浦賀より一路房総半島・鋸南へと船で漕ぎ出します。次回は東京湾フェリーの様子をお伝えします。
つづく