宇宙鬼2

さて昨日に引き続き「痕−きずあと−」について取り上げたいと思います。その前に恒例の画像アップ。

柏木家三女の柏木楓(かしわぎかえで)です。ムッツリです。今で言うクーデレに近いものがありますね。万が一目の錯覚で「武装錬金」のトキコさんにみえても私は悪くありません。おそらく気のせいか、和月伸宏が悪いのです。そういえばトキコさん役の柚木涼香と、キャプテンブラボー役の小山力也を足せば「うたわれるものらじお」になりますなぁ。カッポレ、カッポレ。この手間隙だけがえらいかかる連載の始まりが小山力也だったことを思い出しましたよ。
そんなこんなで今日はビジュアルノベルアドベンチャーゲームの比較を通して「ゲーム性」というものについて考えてみたいと思います。同じ日付内で随時更新していくのでよろしゅう。

で、コレが次女の柏木梓(かしわぎあずさ)です。ようやく四人勢ぞろいしましたね。彼女は一言で言えば世話女房です。今日の私のフォトライフには四姉妹と団子四姉妹の五つの絵がきれいに収まっているので統一感があっていいです。では、ゆるゆるとビジュアルノベルアドベンチャーゲームについて考えていきましょうか。
定義は人によってまちまちですが私はこう理解しています。
アドベンチャーゲーム…文字がウィンドウの中に表示される。選択肢がゲーム性を持つ。
ビジュアルノベル…文字が画面全体に映し出されることが多い。選択肢が画面中の文字によって表される。
このような感じです。ビジュアルノベルの方が文章が画面全体に表示されることから文章を重視しているといえるでしょう。ただし現在ではこれらの区分はあいまいなものになっています。ではこれら二つをどのような言葉で表せばいいでしょうか。そこで登場するのが「ゲーム性」という言葉です。
エルフの「同級生」によって確立されたアダルトアドベンチャーゲームは“ゲーム”と付くようにゲーム性を重視して作られています。その攻略が困難なことから途中で投げ出してしまった人もいるということは、アドベンチャーゲームには「攻略が困難なゲーム性」が付帯するのが前提になっているといえるのではないでしょうか。
一方、ビジュアルノベルはそもそもの始まりである「弟切草からして攻略そのものに重点を置くというよりは広がっていく選択肢を楽しむ要素があるように思われます。さりとてビジュアルノベルがゲーム性が無いわけではありません。幾重にも広がる世界、それらをコンプリートする楽しさ(チュンソフトでいえばピンクのしおり)がゲーム性といえるわけです。
しかし「痕−きずあと−」はバッドエンド以外の道を一本化することで、ビジュアルノベルとしてのゲーム性を喪失する方向へと進んでいきました。アドベンチャーゲームのようにヒロインを攻略するゲーム性も無ければ、サウンドノベルのように広がっていく分岐を楽しむゲーム性もない。そう、「痕」は極めてゲーム性の薄い「読み物」なのです。人はこれを「ゲーム」ではなく「小説」と呼びます。アドベンチャーゲームの持つ女性攻略という目的に向かって進む要素。ビジュアルノベルの持つ多彩な分岐。それらを組み合わせながらどういうわけか退化して「小説」になってしまった「痕」。しかしkeyのAIR月姫は「痕」ほどかっちりした一本道ではないものの、この一本道化を踏襲し、傑作を作っています。つまりゲーム性の否定と小説化こそがエロゲー界の隆盛へと繋がったのです。
そう、エロゲーは「痕−きずあと−」によってゲーム性を捨て、小説化への道をたどっていったのです。
ゲーム性を否定し、読み物としての純度が強調されることによってクリエィターにも変動が起こります。「月姫」や「ひぐらしのなく頃に」を見れば分かるように、文章と絵が描ける人間さえいれば誰にでも「エロゲー」が作れる。という土壌ができたのです。それまではパソコンゲーム関係の仕事の人間はプログラミング等の専門的な技術ができる理系の人間であることが必須条件でした。脚本もそういった技術畑の人間によって描かれることがほとんどで、ライター専門の人間はほぼいませんでした。しかし「痕」の示した「一本道化」の後は、文系やライトノベル作家などが参戦できる世界へと変貌したのです。
ゲーム性の否定は「エロゲー」界の裾野を広げ、才能を持ったあらゆる人間に参戦のチャンスを与えたのです。そして人々が「泣きゲー」と呼ぶ、物語性に特化した「エロゲー」はゲーム性を極力排し、テクストに純粋に向き合える環境を整えられて初めて発生するようになったのです。*1
痕−きずあと−」の残した遺産は、広く、深い。
つづく


参考までに
美少女ゲームは「ゲーム」なのか - ITmedia NEWS

*1:だからこそ逆説的に、いまでもゲーム性を維持し続ける「アリスソフト」は偉いのです。さすが業界の老舗