平信徒について

今日は平信徒(ひらしんと)についてのお話をします。
平信徒とは宗教の信者の中でも末端にいる人たちを指します。この人たちは移り変わり、変動が激しい。「なんとなく」といった気分で宗教を乗り換えたり、もしくは宗教に自分が加入していることに対してすら無自覚な人たちです。現代の我々に分かりやすい言葉に置き換えれば「にわかファン」でしょうか。気分で歌手やアイドルのファンになり、流行の移り変わりとともにすばやく乗り換える。こういう人たちを浮薄なものとして古くからのファンや篤信家は非難します。そして必ず付け加えるのです「あいつらは本物じゃない」と。しかし、それは本当に的を得ているのでしょうか?私は時に思うのです「平信徒こそが真の信者。にわかファンこそが真のファンではないか」と。
何でもはじめはショボイものです。どんな世界宗教も、人気歌手も売り出しのときは海のものとも山のものとも知れない。このような草創期から注目し、ファンや信者であり続けるのは確かに「篤信家」であり「熱心なファン」といえるかもしれません。しかし、そんな人間だけが固まっている集団はクローズドサークルな、仲良しゴッコとしかいえないのではないでしょうか。この集団が広く世界や世間の認知を勝ち取るためには、その価値や思想を真に理解していなくともついてくる「平信徒」をこそ必要とするのではないでしょうか。「平信徒」は自分のメリットや、気分次第でグループを抜けます。しかしグループが発展期にあるときは平信徒の移動は多いものの、その数は増え続けます。こういった「平信徒」の裾野あってこそ、教団も歌手やアイドルも「人気者」ないしは「一大勢力」として認知されうるのです。
「篤信家」は忘れています。自分たちの熱心さや信ずるものの栄光を支えているのが「平信徒」だということを。そして教団やファンの活性化と称して「平信徒」を排斥したりするのです。自分たちの仰ぐ偶像が世間に広がり、認められているのが、さも自分たちの熱心さの賜物だと誤解する。しかしてその裾野を支えている「浮薄な平信徒」を自分たちと比較し、差別する。彼等は忘れています。「浮薄」だからこそ既存の教団やグループから自分たちの方へ多くの平信徒が移ってくる「余地」が残されていたことを。かれらが浮薄でなかったら自分たちの栄光すらないことを、忘れています。
日常大切とすべきはこれら浮薄な平信徒であり、篤信家は自分が篤信家として世間の認知を得る為の平信徒の存在を理解し、「にわかファン」等という蔑称は間違っても使わないほうがいいと思います。
で、『聖書』の「放蕩息子」の話がこれを説明するのに一番適切だと思うので引きます。
ある兄弟は父親から平等に財産を譲り受けます。弟は父から譲られた財産を全部使い果たし、父の慈悲を受けようとその元に戻っていきます。父はこの放蕩息子の帰還を喜んで向かえ、飼っていた牛を屠って供応します。しかるに兄は「私は何年も父に仕えてきたのに、子ヤギ一匹いただけませんでした。それなのに放蕩息子には牛を与えるとはどういうことでしょう」と、抗議しました。父はそれに対してこう答えたのです。「子よあなたはいつも私と一緒にいるし、私のものは全部あなたのものだ。しかし弟はいなくなったものが見つかったのだ。喜ぶのは当たり前である」
この話は父を信仰の対象、兄を「篤信家」、弟を「平信徒」に当てはめることができると思います。篤信家は教団やアイドルに己をささげ、熱心に活動しています。彼等はそのことで既に幸福を得ているのです。それなのに自分の境遇を「平信徒」を引き合いに出して嘆く。彼等は時代の流行にとらわれず一つのものを「愛する」。その価値は平信徒を引き合いに出さなくても、己の生き方で証明されているのです。自分のような生き方をしない他者を引き合いに出し、批判することで自らを貶める必要はないのです。と同時に彼等の「愛」を支えているのが「浮薄」であるが故の「平信徒」だということも忘れてはならないのです。
「平信徒」いてこその「ファン」であり「信仰」なのです。