ネバー塩田グストーリー

瀬戸内に行ったときの紀行文を書きます。
今回は塩田がメインコンセプトです。場所は広島県竹原と、岡山県児島。この両地域において花開いた塩田という産業が瀬戸内地域にどのような役割を果たしたのか?考えていきます。
まずは竹原です。この地に関しての論考は既に前回行いました。
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この竹原の町ですが、今回、ニッカの創始者竹鶴政孝の研究者である宇多源氏くんのたっての希望で私mantrapri、宇多源氏、アナーキンブッコロスカイウォーカー、tukinohaの四人で再び訪れたのです。
竹鶴政孝のことなどからこの町が酒造を中心に栄えた町とお考えの方もいらっしゃるかもしれません。しかし、酒造はあくまで副産品。近世における竹原の主力産業は製塩業だったのです。そこらへんのことについては同行したtukinohaくんのブログにも触れられています。
2007-03-25 - tukinohaの絶対ブログ領域
私も大岩ピュンには萌えました。
何故、tukinohaくんの見た「塩のひみつ」が郷土資料館に置かれているかといえば、ココ竹原が製塩業の町だったからです。元々は新田開発のために海を干拓したのですが、塩分を多量に含む土壌のため、上手くいきませんでした。そこで空間地利用のため、当時(今もだけど)製塩業が盛んだった播州赤穂の入浜式塩田の技術を取り入れ、製塩を始めました。これが大当たりして、塩の輸出は伸び、ついには東北地方にまで竹原の塩の普及は進みました。そのため塩のことを「竹原」と呼ぶ地域もあったようです。
で、現在にもこの余波は及んでいます。竹原の対岸に位置する伯方島。そう「伯方の塩」の産地です。ここに製塩技術を伝えたのも竹原でした。みなさん伯方の塩を食するときは是非竹原を思い出してあげてください。竹鶴政孝は思い出さなくてもいいです。


ここで閑話休題。入浜式塩田について説明します。古代より製塩は盛んに行われていました。日本は西欧やアメリカのような岩塩が取れない地域なので、塩の採取は主として海より行われていました。9世紀以来行われている「塩浜」と呼ばれる浜から塩を取る方法が近世に発展したのが「入浜式塩田」です。これは浜に海水を自動的に引く水路を作り、そこの水分を含んだ砂から塩を取る方法です。塩田という名からわかるように、方形に区画されさながら田んぼのような地割を見せます。


塩田についての説明終わり。で、この製塩業は赤穂をはじめとして瀬戸内海に普及しました。近世の海運ネットワークである北前船も瀬戸内では塩を運び込み、主力の貿易品としました。岡山県児島も、そうした塩の産地の一つです。
児島は古代、児島屯倉(こじまのみやけ)という皇室の一大御料地が設けられた場所で、瀬戸内交通の要所です。瀬戸大橋もこの地に架けられています。JR児島駅から徒歩十分のところに野崎家住宅という重要文化財の住宅があります。ここは近世末に野崎武左衛門(のざきぶざえもん)によって建てられた屋敷です。野崎武左衛門は児島の地に塩田業を広め、塩田王とまで言われる資産家に一代でのし上がりました。その後進が現在でも塩を扱っているナイカイ商事です。
この家屋敷がとにかくデカイ。塩というのがいかに巨万の富をもたらすか、またそれだけ人間の生活にとって必需品であるということが実感できます。さて、この塩ですが食用の他にも様々なものの原料として使われます。塩を主力に使用する産業がソーダ工業です。
これは塩を元にして力性ソーダソーダ灰、塩素を作り出す産業です。ここで作られたものはそれぞれ
力性ソーダ・・・工業製品、紙、パルプ、化学繊維
ソーダ・・・ガラス製品
塩素・・・塩化ビニール
の原料となります。これらのいずれも日本人が健康で文化的な生活を送るために必要なものであり、食用だけでない、塩の重要さがわかりますね。ちなみにうちの祖父がソーダ会社の社長をやっていたので、こんな宣伝しました。身内びいきです。我田引水です、入浜式塩田に塩を引くように。


追伸・ああ・・・十万ヒット行きそう。踏んだらおせーて。