「既得」意識について

コンタクトを片方なくしてしまい身動きが取れないmantrapriですこんにちわ。普段文明の利器に頼った生活を送っているとそいつを失ったときの喪失感はひとしおですね。皆さんも大切なもの、特に身の回りにあって何気なく使っているものに、感謝の念を忘れないようにしましょう。
で、本日問題にしたいのはこの「喪失感」。喪失感を味わうためにはそれを所有していた「既得感」とでも言うべきもので満たされた状態になければなりません。ええ、ここで「満たされた」と言うのは「満足している」と同意義の語ではなく、「所有することが当たり前でその重要性に気づかないほど麻痺してしまった」ということです。
現代の文明社会はこの麻痺の中で機能しているといってもよいでしょう。我々は摩擦熱で火を起こす方法は知っていても、実際に自力で起こしたことはない。料理はするが家畜を殺したことはない。交通機関を利用するがそれを開発したことはおろか、そのメカニズムさえ満足に理解していない。
かように我々の現代生活は砂上の楼閣なのです。自分が働いた報酬で作り上げている世界ではない。農家やモノを作る仕事の人でもそれは同じことです。商業が発達し、流通が進歩し、為替が発達して、技術が世界中に満遍なく敷衍する世の中では全ての人は自分のあずかり知らぬモノの上に立って生きていくしかないのです。
ここではその物のありがたみを知らずに利用するという「既得感」を前提に社会は動いています。そのことに対する実感や思いがないまま、我々は文明の利器を利用しているのです。しかし思いはなくともそれに寄りかかって生活していることにはかわりがありません。したがって一度災害が起こって、これらの機能が麻痺したとき、人は理不尽とも取れる「喪失感」のみを味わされるのです。そこで味わう喪失感は過去の人類の比ではありません。
だもんで、いざそれを失ったときにあたふたしないように日ごろから自分が使っているものの意味、ありがたみを考えるようにしたほうがいいのかなぁ、と考えます。
うーん、多分後ろ向きな感情だなぁ、コレ。だからオススメはしません。