私は出会えるのだろうか・・・

              お客はちらほら。
                   リドルはたくさん。
               フィナーレはひとつ。

Forest

Forest

ふと、思います。いや、思いました。
わたしはこれから生きる。これまでも生きた。そして今生きている。そんな今の私が、一文一文が過去へと、彼方へと送り続けられることや、記録という封をすることを恐れずに書く。
自今以後、「Forest」を凌ぐエロゲーに出会えるのだろうか、と。
これ以上の感情の発露はやめておきます。
「これはこれでまた、別のお話」(cv北都南)
「リドル」を語り終えるまで、覚めやらぬ戦慄き(おののき)の中にいたら、のお話。


今回の「リドル」は「真夏の夜の夢」それと「ピーターパン」。新宿の公園の、森の木々の中行われるそれは、ふと「ガラスの仮面」を思わせます。
主人公たちは作中のキャラクターを獲得します。
内気なOL・天森望(あめのもりのぞみ)は「ウェンディ」そして「ママ」。彼女はリドルの世界では生き生きと動き回ります。そう、現実の内向きさを取り戻すかのように。そんな彼女が反映されたウェンディは恐るべき「ママ」となってピーターパンたちを従えます。そう、彼女が所有するものの中では、どのようにだって振舞えるのです。聖女でも、暴君でも。
この気持ち、私も少し分かります。内省的な人間は他者へ要求するよりも、自分に多くを要求してしまうのです。そして飲み込みます。そっちの方が辛かったり、非効率だったり、何の解決にもならなくても、そうします。楽だからです。しかし、その内に取り込まれたもの、内省的な人間の内部に組み込まれた人間は悲惨です。彼らは理不尽な要求を課されます。そのくせそれを課す内視省的な人間はそのことを恥じていません、いや気づいてすらいないかもしれません。なぜなら自分も含めた、所有物に対しては内政的反省を容赦なく促すからです。
内省的な人間は「おとなしい」のではありません。内側に攻撃的なだけです。それはその人間が紡ぎだした「物語」においても例外はありません。だから、天森は自分の所有物、物語に対して果敢に振舞えるのです。
Forestは天森の物語。言葉通り。彼女の「物語」についての「物語」。もひとつおまけに。彼女の「物語」についてを「物語」る過程と結果の「物語」。
さながらマトリョーシカ。而して不思議。内も外も、ありません。種も仕掛けも、ないのです。


明日は楽しい楽しい双六リドル「ザ・ゲーム」について述べたいと思います。