完全装甲狂騒(フルメタル・パニック)、だ

…無能な連中が勝つのがそんなに楽しいのか?
                          相良宗介

フルメタル・パニック?ふもっふ「やりすぎのウォークライ」冒頭の宗介の言葉です。番組の冒頭、テレビの青春ラグビーものを見て、だめな人間が立ちなおる姿に感激するかなめ。しかし宗介は上記の言葉をさらりと言い放ちます。徹底したリアリストです。全ての人間は何かには有能であり、何かには無能です。そんな烏合の衆を集め、同じ目的に走らせること。かつ、ある程度その方向に関して有能にすること。それは天然自然の状態ではなしえません。強力な装置、外部からの圧力がない限りは…。

フルメタル・ジャケット [DVD]

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この回ではスタンリー・キューブリック監督のこの作品の演出がオマージュされています。原作のフルメタルジャケットでは新米の海兵をハートマン軍曹が殺人機械に仕立て上げるのですが、こちらではナヨナヨのラガーマンを相良軍曹が殺人マシーンに仕立て上げます。
どちらも殺人マシーンと化するところはおんなじです。軍曹が吐く罵詈雑言もお下劣で卑猥な海兵隊仕込みです。
フルメタルジャケットにおいてもフルメタルパニックにおいても海兵の新兵へのシゴキは非人道的、人間性を失わせるものとして書かれています。しかし、人間性という単純な言葉でくくっていいのでしょうか。フルメタルジャケットにおいて太った新兵はハートマン軍曹のシゴキの対象になります。彼はいつも薄ら笑いを浮かべ、自分の欲求を我慢できない弱い人間です。しかし人間性あふれています。と、同時に彼は「個人」ではありません。常に誰かの影に隠れ、意識、無意識に人に甘えて、人の陰に隠れて生きているのです。
その彼が度重なるシゴキによって自分の銃に依存するようになっていきます。そして最後は銃に脳をのっとられた獣となり、ハートマンを射殺するのです。ハートマンに因果応報が来た、と我々は言うべきでしょうか?
「否、断じて否。です」
シゴキが人を殺すのではありません。世界への甘えが人を殺すのです。現に殺されたのはシゴキをこなったハートマンで、殺したのは心優しい、されども依存症の新兵なのです。ハートマンは彼らが憎くて教練をしているわけではありません。
海兵隊は決して仲間を見捨てない。何故か、それは共に同じ地獄を見たからです。
彼らは家や宗教、人種で結びついているのではありません。ハートマンという獄卒から同じ地獄を味合わされた戦友として結びついているのです。これは人間性ではないのでしょうか?クランや門地やネィションに依拠する友愛のみが、人間性だとでも?ヒューマニズムだとでも?
ハートマンは海兵隊員のヒューマニズムのための踏み石なのです。そういう役割を自分に課していたのです。自分の弱さに依拠し、そのはけ口としてハートマンを抹殺した新兵を擁護することは、ヒューマニズムの立場からは首肯しかねます。本能の立場からなら認めますが。

国籍、人種、門地、宗教の違う人間を愛することをヒューマニズムというなら、それはただヘラヘラと薄ら笑いをしているだけでは生み出せない。強靭な意志力、さもなくば同じ地獄、同じ敵を抱くことでしか実現し得ないのです。
宗教や国家に頼らず、異床同夢が見たいなら、同じ地獄を味わうしかないでしょう。同じ天国程度では、ヒューマニズムには、弱すぎる。