多重主人公の時代 〜ゼロ年代の想像力〜

SFマガジンの「ゼロ年代の想像力」についてネットでかまびすしく言われているようでござんすね。私もミーちゃんハーちゃんなもんなんで、今示されている材料で、少しこの問題について考えてみます。
そのためにアタシてきに押さえておかねばならぬ作品を、ひとつ。
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ゼロ年代の想像力で述べられている「決断主義」というもの、その萌芽というか根本を私は「ロック冒険記」に求めます。それは何か?
「主人公も死ぬ」ということ。
この作品で主人公であるロックは自身が育てた鳥人たちの集中砲火を受け、消し炭のようになって死にます。夏目房之介が著書で触れているように、主人公自身が死ぬマンガの萌芽ともいえる作品です。そう、主人公が死ぬ。これを重要なキーワードと私は考えます。ゼロ年代の中で決断主義として挙げられている作品を洗い出してみてください。
「バトルロワイヤル」、「仮面ライダー龍騎」、「デスノート」、「コードギアス」。これら諸作品におけるキャラクタークレジットの先頭にいる人物は、死んだり、死ななかったりします。
「…おい、言ってることとちゃうやんか。主役は死ぬンやろ?」
まあまあ、私はクレジットタイトルの先頭にいる人間は死んだり、死ななかったりといいましたが、主役が死なないなんていってませんよ。
「話が読めんなぁ?主役言うたら、最初にクレジットされる人間にきまっとろうが?」
いんや、決まってませんよ。今の時代、主役なんていないのです。いや、いいかえれば多重主人公の時代なんですよ!
まずは切通理作氏の『特撮黙示録』に掲載された井上敏樹のインタビューを抜粋します。

いま、スターはいないんじゃない?早い話が石原裕次郎みたいな存在が。それは、そういう時代なんだよな。それは情報が氾濫したせいだと思うんだけど、でもそっちの方が俺は好きかな。色んなことができるからね。多分、これからのヒーローものっていうか特撮ものはね、新しいヒーローを作ろうとすると失敗するよ。ヒーローを作ろうとしない方がいい。スパイダーマンでもスーパーマンでもなんでもいいんだけど、やっぱり一個のヒーローにヒーロー性を集約しようとすると絶対に受けない。
世界全体がヒーローっていうか、個人じゃなくて世界観がヒーローになればいいと思う。その世界に行きたい。その世界が面白い。そういう方がいい。
                          井上敏樹『特撮黙示録』より 

…もう、なんかこの一言で議論が尽きているような気が私はするんですよ。まあ、それだと私のオマンマ食い上げなので説明を続行したいと思います。
氏は伊上勝の息子で平成ライダーシリーズの主要ライターです。龍騎も当然手がけています。で、龍騎の世界観を考えてみてください。あそこに出てくる13人のライダーは、それぞれ己の願望を叶えるために神崎士郎が提唱するライダーバトルに参加します。主役の城戸真司は彼ら13人の中で卓越した正義やカリスマを持っているわけではありません。人殺しはよくないという道徳心だけで、他のライダーほどの強いエゴも目的もないのです。そう、城戸は完全に十三人と同じ立場、相対化されているのです。
彼の名が冠されているはずの「仮面ライダー龍騎」。しかして彼は他のライダーたちのエゴに翻弄されるという役割を果たす人間に過ぎず、シリーズを貫く主役足りえないのです。
そう、ここにいる13人全員が等しく主役なのです。そしてライダーバトルの果てに願いを叶えられるのは、一人。それぞれの人生の主役たる13人のライダーたちは相対化された世界で己のエゴのために戦い、死に果てるのです。
ここで「殺し合う」ことは決断の結果でしょうか?主義でしょうか?否。私は主役同士が打ち消しあう主役多重化による内ゲバであると考えます。そう、脇役はついに主役と等しく死ぬ権利を与えられただけである、と。
バトルロワイヤルにしてもそうです。本来なら、名もなく死に絶えるはずのクラスメートの性格が、主義が、主義が浮き彫りにされ、なお死に至らしめられる。彼らに「主役」という死に化粧を施してから、葬り去っています。もちろん「コードギアス」においてもそうです。守られる姫。ヒロインのユフィが横死を遂げ、ルルーシュとスザクは主役同士の命を賭け、しのぎを削らねばならなくなる。これは皆が主役である可能性を「否応なく」付与された世界だからです。もしルルーシュのみが、スザクのみが主役であるならばこのような逃げ場のない手は打てない。皆が相対化されているからこそ、皆が主役のように振舞ったり、死んだりする権利を有するのです。
そしてデスノート。考えてみてください。生き延びるのは月である必要性はないのです。Lが生き延びようが、ニアが生き延びようが、メロが生き延びようが、何の不都合もなかった世界のはずです。ストーリーの辻褄さえ奇麗に整えば。
何故か?
それはノートを持つもの、追うもの全てが主役になる権利を有しているからです。井上氏が言うように「世界」が主役となり、登場キャラクターは「世界」の都合に合わせて主役のように振舞ったり、脇役のように引いたりします。世界定さえ定まっていれば、キャストのポジションは交換可能なのです。
「決断」主義という主観的な名が冠される作品世界は、その実、たいへん客観的な世界でもあります。この世界ではいつ主役が脇役のように死に、脇役が主役のように死ぬか分からない。なぜならキャラクターにではなく、世界にキャスティング権が委ねられているから。この「世界」に重きが置かれた一連の作品はまた、多重主人公の世界でもあるのです。それで、誰でもロックのように、主役のように、死ねる。
「決断」主義といいつつ、その実「セカイ」に「殺す」決断は委ねられているのでありました。ちゃんちゃん。