祇園御霊会

埼玉の友人の623君と一緒に祇園御霊会を見に行ったとですよ。
といっても我々が行ったのは本番ではなく、氏子がやってる山鉾の飾り付けを見る宵宵山だったのですが。
ということで三条で待ち合わせして、何故か岡崎方面へ。その日は曇っている割にはむしむししていて、気分はベットリでした。何故か最初に行ったのは無鄰庵。明治の元勲・山県有朋の別邸です。琵琶湖疏水を引きまくっているので水が滾々と湧き出ております。下手な河川並みのレベルの水量です。そこで携帯のジョグダイヤルが復活したことを喜んだり、山県有朋ゴッコ「オレとオマエは禿山かつら」*1をして遊びました。

その後は平安神宮に参拝です。623君は趣味の絵馬観賞をしていました。また、彼から任天堂DSで「般若心経」が出たということを聞き、思わず「写経しろよ!」と思ってしまいました。いやあ、電脳化は低コスト、環境に優しいなどいいことずくめですが唯一つ、積善(しゃくぜん)だけはできません!
次に祇園社にあやかって岡崎神社へ。『二十二社註式』には、祇園社の由来について次のように記しています。
牛頭天王、初メ播磨明石浦垂迹シ、広峯ニ移ル。其ノ後北白川東光寺ニ移ル。其ノ後人皇五十七代陽成院ノ元慶年中ニ感神院ニ移ル。
このように祇園社は明石浦→広峯(姫路市の山)→北白川東光寺→祇園感神院(今の祇園社)と移動していることがわかります。ちなみに北白川東光寺というのが今の岡崎神社です。で、今は完全に神社と化しており、往時の姿はありません。

で、この東光寺ですが古代の官符を集めた『類聚三代格』という書物にも出てまいります。延喜五年三月九日の官符ですが、そこでは
件ノ寺山城国愛宕郡ニ在リ。元慶年中大后ノ御願ニ依リテ建立スル所ナリ。今仰セノ旨ヲ奉(うけたまわ)リテ云フニ、結構既ニ成リ、功業漸(ようよう)ニシテ畢(おわ)リヌ。仏経ヲ安置スレドモ、興隆ノ由無シ。庶(こいねがわく)ハ安祥元慶寺ノ例ニ准ヘテ、之ヲ定額ニ列シ、東光寺ト名ヅケンコトヲ。
とあります。ちなみに東光寺を創建した「大后」とは藤原高子(たかいこ)です。陽成天皇の母親で在原業平とのロマンスが描かれた『今昔物語集』の「鬼一口」の話で有名です。鬼といえば祇園の本尊は牛頭天王。こちらも鬼です。なにかと奇遇ですね。
延喜五年のこの時になって初めて『東光寺』の名前を得たわけで、それまでは別の名前だったことが考えられます。しかも元慶年間は877〜885年までの九年間しかないわけで、その間に広峯から出来たての東光寺(まだ別名)に移ってきて、数年間いただけで同じ元慶年中に感神院へと移ったことになります。大変あわただしい神です。と、いうか東光寺という名前の時にはもういなかったんですね、ココには。
確かに御霊というものはあわただしいのでござんすよ。菅原道真を祭る北野天満宮も創建当時はうろうろしてましたし、今宮神社など、御霊を祭る神社は原始的な信仰の拠点ではなく、御霊が居ついた場所にそのまま社が作られます。
祇園社の創建当時のあわただしさもこのような御霊の性質に関係があるのやもしれません。
明日は山鉾について取り上げます。

*1:幕末の長州内戦の際、高杉晋作山県有朋に対して言ったせりふ