レッテルに対する返答

id:tukinohaくんの雑記にコメントを描いていたら長くなりすぎました。したがってこっちに載せて本日の記事にしたいと思います。
2007-11-16 - tukinohaの絶対ブログ領域
前回までのあらすじ

「〜なやつは〜だ」というレッテル貼りというのは概して不毛であり、それ自体批判されるべきことである、と僕は考えます。しかし、そのレッテル貼りに対して、レッテルが指し示す対象はどこにも存在しない、レッテルとは実体のない幻想である、という批判もまた同様に不毛です。

例えば、オタクは身だしなみに気を遣わない、自分の世界に引きこもっているといったイメージはマスコミによって生み出されたものであり、存在しない「オタク」を象徴する幻想である、という批判は、そういった象徴がまさに幻想であり実体として存在しないからこそ機能しているという点を見逃しています。

tukinohaの絶対ブログ領域 11月16日 雑記より転載

あああ、丸々転載してしまいました。著作権に引っかかりますね。で、これにたいして私は

しかるにまた、「不毛」という概念も「レッテル」という幻想のアンチテーゼとしてしか存在しえない。こうした堂々巡りの櫓によって我々は構成され、実態となっていった、と私は考えています。したがって、全ては有意義です。それが絶対的不毛であると断定しうる材料を手に入れるすべは、ない。
mantrapriのコメント

と、返答しました。ケンカ売ってるみたいですね。やなヤツです、私。で、これに懇切丁寧な回答を頂いてしまったのが運のツキ。

確かにどのような概念も対立する概念に寄りかかって存在しているわけで、全ては有意義である(もしくは全て無意味である)と言うことは可能でしょう。しかし、それが思想として意味を持つのは、逆接的ですがその思想の実践不可能性によるものだと僕は考えます。

スラヴォイ・ジジェクがイデオロギィについて「虚偽だとわかっていながら行ってしまう」ものだと言っているように、全ては有意義である(無意味である)と理解している人であっても、価値判断を行わずに生きていくことは不可能です。そこに上記の「実践不可能性」があります。
同時に、全てのものに固有の価値がないのであれば、日々行われる価値判断は自然なものではなく、主体的に行われるものであると考えることが出来るでしょう。僕はそこに「倫理」の基礎を求めるべきである、と考えます。
id:tukinohaの返答

ここまでやってしまうとtukinohaくんの日記の剽窃ですね。ああ、ダメだ自分。でもここまでの話を要約するにしてもかえって文章が長くなりそうだし、逆にtukinohaくんのブログに書くと長くなりすぎるし、で、こうなりました。いつでも言ってくれたら本文部分は消しますので。以下が私の回答です。


私の見解と矛盾しないと思います。それこそが上記の「堂々巡りの櫓」であって、その櫓が木製か、漆喰で塗られたものか、鉄筋コンクリか、はたまたハリボテかを判断するのは個々人に任されている、と私も考えます。
ただ、その櫓を皆が「櫓である」と認識するためには、その概念に対して「幻想」、「レッテル」が多人数によって抱かれること、と同時にそれに対する「批判」がなされることが必要だと考えます。その積み重ねによって初めて「思想」は共有(理解、解釈の差はあるにしても一定の共通項を持ったものとして)されると考えます。「個々人」の「主体的」な「価値判断」もこれと同じく関係性のスキマに形成されるものではないかと私は考えます。
ありていに言えば不毛をかさねないとデータが蓄積されないし、データがある程度集まらないとその概念を認識することも、一定のコンセンサスを得ることも不可能ではないか、ということを言いたかったのでござんす。それは「思想」だけでなく個々人の「自我」に関しても。「倫理」も「実践不可能性」という高次なものよりはまず、共同体内部において実践をともなった不毛な積み重ねの結果、得られた最大公約数の自戒(「殺すな」、「奪うな」)を基礎としたもの。つまりは「最低限」の「実現可能性」であると私は考えます。モーセ十戒や仏教の五戒なんかもその類型かと。これが「実現不可能性」へと昇華、ないしは深化していくために取られたプロセスもまた「幻想」とそれに対する「批判」の蓄積ではないでしょうか。「実現可能性」のような共通項を基礎におき、そこから漏れていってしまうものに対する思弁を積み重ねた結果生じていった、針の先端部分のようなものではないかと考えます。
まあ、つまるところはお互い不毛を重ねないと概念すら形成、共有できないのだから、まあ、努力してムキになって不毛を重ねて行きましょう、と。言うことでござんす。だから「有意義」と述べたのです。データは蓄積され続けるので「無意味」とはイコールではないですね。


・・・整理します。時間がない人はココだけ読んで下さい。
つまるところ私とtukinohaくんの見解の違いはtukinohaくんはレッテル貼りもそれに対する批判も不毛である。という見解を取っているのに対して、私はその不毛の積み重ねなくしては概念が定義できないし、共有すべきコンセンサスも彫琢されない、ということを述べているのです。
それに対するtukinohaくんの返答は思想として意味を持つためには全ての概念は対立する要素に寄りかかっており、その点では有意義(ないしは無意味)である。しかしそれが「思想」たり、「倫理」たるには「実践不可能性」(「理想的要素」とも言い換えられるか?)が必要であり、全ての有意義の中から個々人が主体的に価値を取り出す必要性がある。とのことです。
で、それに対して私の返答は、
一 主体性や自我もまた不毛の積み重ねによって彫琢され、形成されている。
二 「倫理」は共同体における「実現可能性」(言い換えるなら「みんなと仲良くくらすなら最低限これだけは守ろうね」)の産物であり、それらは共同体内における不毛の積み重ね(実践を伴った)によって彫琢される。
三 「思想」「実現不可能性」と呼ばれる高次のものは「実現可能性」を守れない者や、ないしは守っていても悲しみが生じる理由について思弁を重ねた結果生じるもので、それ自体も不毛の積み重ねに依らなければ生じ得ない。
四 とにかく不毛でも何でも蓄積しなければ概念として定義できないし、深化しない。しかもどれが不毛かそうでないかの判断は巨視的には不可能。だけん、有意義=無意味ではない。データは蓄積されるから。
…以上。まとめおわり。tukinohaくんが「概念」というものを実体を伴わないために有効に存在しうるものと定義しているのに対して、私は全てが実体を伴わない蓄積から生み出されたいったものだ。と吹っかけているわけですね。「オタク」論ではなく抽象、具象論の方向に舵を向けているわけです。そこが本流ではないだろうに、困った人ですね、私。