プライバシー感は変化しつつあるのか〜pixivに見る意識の変化〜

毎日一枚はお絵かきコミュニティpixivに絵を投稿しているmantrapriです。自分の絵に点数やブックマークがついたりするとうれしいですね。
このはてブでは文章に評価が下り、pixivでは絵に評価が下る。自分が発信するものがよきにつけ、あしきにつけ評価されるというのはいいものですね。前も紹介しましたがpixivの斬新なところは自分の空間を持てることと、絵をコレクションできることです。ここにコレクションしたお気に入りの絵は誰でも閲覧することができます。すなわち自分の趣味、趣向が人に駄々漏れになってしまうのです。考えようによってはこうした「趣向」はプライバシーの領域に属するはずのことなのですが、私はぜんぜん気になりません。むしろ自分の描く絵の趣向と共に、自分の好む絵の趣向も人に知ってもらおうと、積極的に思います。
昔の私は(今もですが)自分の趣味、趣向、感情をあまり人前に出しませんでした。店員に趣向が知られるのが嫌で、中学までは新しい漫画が買えませんでした。人に自分を知ってほしいという欲望がないわけではありません。ですが、それと同時に自分の中で貯められた思いが、外に開放することによって損なわれていくのではないか。自分のちっぽけな思いが、自信が失われてしまうのではないかという不安が絶えず付きまとってたのだと、思われます。
ブログやpixivをやっているうちにそれが間違いであることに気づきました。
外に自分の感情や技術をさらけ出す。自分のプライバシーを露出させる。それに対して何もアクションが返ってこなかったり、逆にネガティブなアクションが来たときには、確かに少しガックリ来ます。でも、その「ガックリ」はプライドが砕かれた、自分が恐れていたガックリではありませんでした。リアクションが帰ってこないなら、帰ってくるように仕向ける。ネガティブな反応を受けたら、そこから自分の問題点を導き出す。自分がアウトプットしたときに受けた衝撃、痛みは、そのまま胸にわだかまるのではなく、さらなるアウトプットの衝動へとつながっていく。そういうものだと、わかったのです。
この衝動を維持できるのは「上には上がいる」ということが実感できるからです。はてブでも私より洗練され、人の耳目を引く文章を、毎日毎日量産できる猛者が大量にいます。pixivにいたっては言わずもがなです。自分より年下で、自分より絵のヴァリエーションがあって、自分より構図が冴えてて、エトセトラエトセトラ。そんな人々で世界はあふれています。そしてそのことが目の前にはっきり示されるのです。
そういう人たちを目の前にして私がやることはなんでしょう。姿を隠すことでしょうか。自分の未熟さを恥じることでしょうか。そんなことをしていたらますます差が開いてしまいます。自分の自意識を、ちっぽけな思いを満足させるためには、せめて自分の出せる力は解放して、自分の見せられるものは開放して、進むことしかできないのです。pixivで自分の趣向が知られること、それは自分が人に理解されることの第一歩です。自分の絵の評価を見ること、それは自分の実力と、人が好む傾向を知るためのアンテナです。プライバシーは、己の「性質」は、公開することで磁場を発し、それに対する人の反応から「己」というものを、そして成長するための方法を知るための縁(よすが)となるのです。
そう、自分の「性質」は自分を知らせるための手段。決して後生大事に蔵の中に仕舞い込んで、自分だけで暖められるものじゃない。そうする前に「さらし」て「反応」をみて、「方針」を決めることができる。自分自身に対する撒餌(まきえ)たることができる。
これからのプライバシーは「隠す」方向ばかりではなく、「広がる」方向へと進んでいくのではないかなぁ。と、ふと思いました。


ということで早速絵です。

蓬莱山輝夜です。かぐや姫です。pixivやcoolierの方にはちょっとアレな方の輝夜をアップしたので、こちらはお口直し。