芸術は「個性」が造るものか?否か?

id:tukinohaくんから借りた本を読みました。今日はその感想。

ゼウスガーデン衰亡史 (ハルキ文庫)

ゼウスガーデン衰亡史 (ハルキ文庫)

ひとつの遊園地。アトラクション。それが東京を、日本を飲み込み、国家を作る。巨大なパンとサーカスだけのエンパイアを。それが「ゼウスガーデン」。これはアトラクションの「ローマ帝国衰亡史」。
この帝国では人々は創作に、己のアトラクションの表出に全力をかける。そして選ばれたアーティストが栄光の廟堂へとのし上がっていくのだ。「芸術」によって価値付けられた巨大な楼閣。それが「ゼウスガーデン」。
いやぁ。めっちゃ面白かった。支配者をコロコロ変えながら、政体を転々とさせながら、さりとて「アトラクション」「テーマパーク」というディシプリンだけが見えざる手によって継承され続ける巨大な遊園地帝国。すごい発想だぁ。そこに住む人々はアーティストと観客の二手に分かれる。さながらローマ帝国において国政を担当する元老院をはじめとした政治家と、パンとサーカスに興じる市民のように。
さりながら。ここで繰り広げられている行為はあくまで「芸術」ではなく、「アトラクション」だと私は考えます。何故か。それは「継承」がない「個性」にのみ頼ったものばかりだから。
アーティストたちはおのれの才能を捻りつくし、あらゆるアトラクションをこの遊園地へと生み出していきます。幻想の中国を体験させる空間や、スキャンダルを楽しむ実録映画、花を咲かせる植物性動物。強化人間たちの畸形オリンピック。どれもこの世では二目と見られない乱歩世界。しかし、どれも残念ながら独創的ではない。どれも「個性的」であることを目指しながら、その「個性」は継承されるものではない。絵画上の新技法。人類史的な発明。建築の新様式。彫刻史上の新しい展開。そういった継受されるべき要素や発明はこの帝国ではついぞなされなかった。みなその場限りのアトラクション。何故か?皆が「個性的」であることに腐心しすぎたから。
彼らは自分のプランが「独創的」であることに腐心します。しかし、その技法や建設方法などのインフラストラクチャーの部分は官僚の手に委ねます。採算も気にしません。着想のみに重きが置かれ、それが実現される行程や資金繰りは他者に委ねる場合が多い。
その行為は一見独創的に見えるでしょう。しかし、彼等には「思いつき」はあれど「土台」がない。己が建材を集めてきて現場監督をしたり、同じ習作を繰り返し行うこと、すなわち「継承」「継続」を行いません。土台から構成しようと思わない人間にはその場限りの「インスピレーション」はあれども、それを発展させ「世界の常識」たらしめるだけの持続性がない。彼等に「ウォークマン」や「カップヌードル」は造れない。
私、mantrapriは芸術の観点を「その存在が心にマーキングされた人間が多いか否か」という点に求めます。つまりは「それなくして生きられないほど、人を縛るもの」に芸術の価値を求めます。要は「どれだけ多くの人がそれを知っているか」。
そういったものは一人の人間の「想像」や「創造」によって生み出せるものではありません。前代からの先祖からの既存のものの「継承」の上に初めて成り立つのです。芸術は「個性」でしょうか?しかし、先人を知らぬ独創などちっぽけなものです。
もちろん、この作者はそんなこと百もご承知でしょう。だからこの帝国は滅びる。それも己が生み出した享楽主義を原因として。そう、この帝国ははじめから「滅び」を目指していた。穴倉へと落ちるために創造された。刹那を貪るためだけに存在した。だから滅びる。何も残さず。そう、「芸術」じゃない「アトラクション」だから。集まった「個性的」な人間たちも「アトラクション」というディシプリンに従わざるをえず、終に「継受」すべきものを造りえなかったという意味では「没個性」であったのだ。
アトラクションはいつかは終わる。遊園地は夜には閉まる。どんなテーマパークも最後は終わりを迎えるのです。これはそんな邯鄲の夢のはなし。テーマパークのテーマに縛られた奴隷たちの、話。