創造は「解釈」に依るところが大きいのかなぁ?2

てことで昨日の続き。

この動画は我々がRPGをプレイする上で忘れていた「戦術」と「戦略」という概念をありありと思い起こさせてくれるのです。
とりあえず戦術と戦略の意味を日本国語大辞典で引いてみました。

  • 戦術…戦争における戦闘力の使用法で「戦略」に対して下位の部隊の運用法をいう。
  • 戦略…ある軍事目的を達成するために、対極的に戦争を運用する方法。

となります。このプレイ動画に当てはめれば、
「戦術」=一回の戦闘
「戦略」=「遠足」も含めたダンジョンの攻略全体

ということになりましょうか。
FFも含め、多くのRPGはあまたのジョブ、レベル上げ方法、武器を持っています。なおかつプレイするユーザーは、攻略本からあらかじめその情報を事前に仕入れることが出来ます。
すなわちRPGの多くは「最初から勝てる試合」。出来レース化してしまっているのです。そんな世界には戦略も戦術も必要ありません。
しかし、現実の「戦」はこのストイックなFFの如きものです。
我々の持ち駒は限られており、(青魔法のみ)
行動できる距離も兵站次第、(フィールド、戦闘における回復手段の欠如)
一歩進むのにも慎重にならざるを得ない。(数多くの困難な「遠足」)
まさにこのプレイ動画は「戦」を地で行っているものなのです。さらにその運用手段が「青魔法」というのがまた絶妙なるチョイスなのです。
青魔法は他のアビリティに比して混沌としています。物理攻撃のようで、特殊攻撃のようで、魔法のようで、そのいずれでもない。何でもありで、かつ出来ることは限られている。このアンビバレンツな存在が思いもよらぬ戦術。戦略を生み出すのです。ボス戦においても、通常のRPGの戦闘では豊富なHPとMPおよび回復手段という、豊臣秀吉も真っ青の物量作戦で押し切ることが出来ます。
しかしこの青魔法を使う戦闘では通常の威力攻撃のほかに、敵の命中率を下げる青魔法「フラッシュ」。敵のレベルを下げる「ガードオファ」。敵の全体能力を下げる「レベル2オールド」などの絡め手を必要とするのです。また、決定的な火力に欠けるため、必然的に戦闘も長期化します。事前の準備を整えてもなお、勝ち目も先もなかなか見えない戦。この不確実性がドラマを生み、戦闘の幅を我々に思い知らせてくれるのです。ちょっとマゾヒスティック。
我々は資金も武器も魔法も攻略本も潤沢なRPGを「本来的」なものと思っています。しかし十五年近くそれに慣らされてきているだけで、決してそれが本来の楽しみとは言い切れないのです。やりこみプレイを「邪道」「いらぬ苦労」と思ってしまう、いや思い込める我々はその実「ゲームに飼いならされているのではないでしょうか」。送り手の意図する「楽しみ方」を受け手がそのまま享受する。日本の「玩具」というのはこういうシッカリした「カタチ」で受け手に送り出される場合が多いです。いわゆる「既製品」。
そこで「良識ある」オトナにはドイッチェラント産の積み木やパズルのような、カタチなきものを組みあわせて己のカタチを作る「知育玩具」が持て囃されたりするのです。同時に「ゲームは「創造力」を停止する」といった想像力が停止した物言いも出たりします。
でも、それに惑わされてはいけないのです。日本人の美徳とは「既製品でアクロバティックに遊ぶこと」。すなわち模倣、改良にあるのです。それこそが我々の最も得意とする「創造」のカタチ。
我々は「パッケージングされた既製品を遊び倒す才能」という点でははなかなかに、いやだいぶ優秀な民族なのです。カタチなきものからからカタチを作るのではなく、カタチの出来上がったものを複雑怪奇に組みなおすのです。そしてそこに「美」を見出す。このFFⅤのやりこみには、既製品を遊び倒し、創造しつくす貪欲さがうかがえます。
そうやって既製品で「遊ぶ」うちに、「既成」の限定された世界を超えて、より本源的なものへと近づく。「ゼロから百」へ至ることと、「百からゼロ」へ至ること。その二つの道のりはどちらが優劣ということも、始まりで終わりということも、アルファでオメガということもなく。どちらも世界を解釈するという「創造」への道筋なのです。
そんな私たちなりの「創造」の有様を見せてくれるのがこの動画です。

<オマケ>
前回述べた、ゴーレムとバッツ(この動画ではストラゴス)の怨讐の連鎖を絵にしてみました。

ホントウにこんな感じです。詳しくは動画を見てください。