36年後の同年代

私は今、26歳である。
森恒夫永田洋子より一つ下で、坂口弘より一つ上である。
1972年冬の彼らは、私と同年代だったのだ。
そして死んでいった人々のほとんどは、私よりも年下になってしまった。
映画監督 若松孝二 公式サイト

彼らの時間は、若さは、36年経ってもそのままだ。
彼等の「存在」の時間は私の2倍以上、孫がいてもおかしくない年齢。でも彼らの生の時間は私にすら満たない。
思想とか権力とか革命の以前に、それはこういう矮小的な、それでいて絶対的な問題でもあるのだ。
というか、そうなってしまったのだ。
そんな絶対的な死に対して、思考停止せず、死の影に隠れることをせず、判断停止の材料たることを許さない。
「死」を理由に、彼らの「活動」を否定し、警察権力を賛美し、それを「政治の季節」扱いするのは、やはり冒涜の一種だろう。
かつ彼らを「反権力」として賛美し、その死を「神聖化」し、「祭り上げる」こともまた、冒涜である。
「死」は絶対的である。彼等からはもう何も聞き出せない。そして私たちは彼らの存在を解釈するという「冒涜」を積み重ねてしか、今の季節を言葉に出来ない。知りて、言葉にしなければ、いいのかもしれない。しかしそれは「何でもない」。guilty or not guiltyどころか、俎上にすら乗らない真空だ。
我々はどうしても、死霊に語りかけなければいけない。彼らのためではなく、自分のために。
国のためでも、革命のためでも、家族のためでも、誰かのためでもなく、自分のために。
死者を利用し続けなければならない。
それをこそ、「総括」というのかもしれない。