「かなしみ」のない面白さなんて

大変、考えさせられます。
http://d.hatena.ne.jp/geemoku360/20071217/p1
私は「面白さ」を尊びます。
人に笑われても、指を指されても、そのことで人が喜んでくれるのならば、一向に構いません。でも、己の「誇り」と天秤にかけることは出来ない。もし、自分を見ている人々が「こいつは「馬鹿なヤツ」だからこんなことが出来るんだ」と「嘲って」るのなら喉笛を噛み切ってやる。
それは「かなしみ」をわからないやつ。少なくとも、他人の「かなしみ」をみとめないやつ。

「かなしみ」無き道化は「俗悪」。「かなしみ」を傷つける笑い手は「醜悪」。

人は人をネタにして生きています。人の悪口をツマにして酒を飲み、人の性格をタネに時間を潰しています。それが心安らぐコミュニケーションです。誰の悪口も言わず、誰とも敵対せずに、全ての人間の心情を慮って生活できるものなど、この世の中にはいません。なればこそ、生きていける。
しかし、そのことに対する「かなしみ」を忘れて生きていける人間もまた、いないのです。人の悪口を言う分、負債は溜まり、他人の噂をする分、しこりが残る。そしてそれらをしないで生きようとすると、自分に拘泥する。急に明日から善人にはなれない、さりとて悪人になることも、できない。私たちは笑いながらまた、それゆえの「かなしみ」に生きている。
私たちが「面白さ」を求めるのは、「かなしい」からです。「かなしい」から人を見て笑う。そして笑うから、嗤ってしまうから、「かなしい」。
だけど「かなしい」のはおまえだけじゃない。
あなたが馬鹿にして、笑う人間も、あなたを馬鹿にして、笑う人間も、テレビの中の笑われる存在も、クラスの中の笑われるあの子も、あなたが「他人」と思って「勝手」に恨んだり、崇めたり、貶したり、羨んだりしている、自分とは違うなにかもやはり「かなしみ」を持っている。
母の手を去り、家族の下を去り、大地に投げ出された「おとな」だったら、己と同じ孤児たちが大地をうろうろしていることを「感じ」てもいいと思う。笑うアホウも見るアホウも自分とは違う。でも、自分に極めて近いスペックとこころを持ったいきものなんだと思えば、そこに「かなしみ」を思うことは出来る。
そんな「かなしみ」をわきまえた上で「面白さ」を愛する。そうすれば「笑い」が「嘲笑」にならずに生きていけるんじゃないかなぁ。と思っているんです、
が、
難しい。