権力を憎む人間は「反権力」になれない

私は権力が好きです。権力に組みしたいです。ただ、自分の主義に合わない権力が自分の眼前にたちふさがった時には、その権力と戦います。他の権力に組することによって。
そういう意味では私は権威主義者です。権威がないと人はなにもできないと確信しております。ただ、私の言う権力、権威は国家や社会といった広い枠組みのみでなく、人間誰しもが所有する、「権利」に近い。
権利は天から平等に与えられる。わけはありません。権利は不平等でいびつなものです。しかし、平等でないかわりに、誰にでも違った形の切っ先があたえらます。
強者には強者の、弱者には弱者の、正しさには正しさの、歪さには歪さの権利があり、それは使いようによってはどのような権利、権力とも拮抗します。ジャンケンや3すくみのようなものです。
マハトマ・ガンディの「非暴力」運動は無抵抗運動ではない。非暴力という権力を使って、暴力という権力と闘争している。
「権力」を圧政や武力や経済力のみに限定する思考は私にはない。権力は誰もが持ちうる、使いうる権利。その大小はあれ、我々が生きるために必ず組さねばならない「力への意思」。
「反権力」という言葉は確かに組みしやすい。でも、「反」権力するからには、誰かに自分が放棄した力への意思を肩代わりして考えてもらわねばならない。そして、その人間が出した答えに逆らう形で「反」権力を実現しなければならない。権力を憎む人間は反権力にはなれない。何故なら権力を前提にし、そこに自分の一部を委ね、思考停止しなくては「反」することはできないからだ。
それが嫌なら、己の手に権力を持ち、相手の権力を叩かねばならない。しかし、そうしたら自身も権力を行使することになってしまう。
つまり、反権力は王の傍らに侍す道化のみに許された言葉なのだ。
我々はいつでも犬だから、権力を憎むなら、権力でもって権力と戦い、マーキングするしかない。
だから、権力を憎む人間は、反権力にはなれない。