右手、左手のことを考える

私の右手は、左手に比べて荒れています。
かさぶたができやすかったり、ごつごつしてたり、疲労を感じやすかったり、そのほか、エトセトラ。
まあ、要するに私が右利きだからであって、左手と比べて右手に対して過剰な労働を要求しているのでしょうな。日常的に。それなのに、何故か私はいつも申し訳なく思っている。左手に対して。
答えは簡単、右手ほど左手にかまってやれないからだ。
右手がペンを持つときは、左手は所在無くぶらぶらしている。右手が箸を持つときは、左手はテーブルの上にいるべきか、下にいるべきか迷いながら、いる。
したがって、右手は傷つき、疲れていても、いつもソレを感じているし、それだからこそ酷使する。一方左手とは、少し距離を置いているせいもあり、清潔だが、なんと声をかけていいか、わからない。
たとえば車通りの多い歩道を歩くときでも、右側通行で右手が車道側にくるので、ついつい右手を庇ってしまう。たまたま左側を歩いていて、左手を車道に突き出しているときは、ここまで「車に手が持っていぁれることへのヴィジョン」を想起しない。
そう考えれば、左手は飼い殺されたように思っているかもしれない。まったく同じ素材、形質、性能でありながら、割り当てられた場所によって180度、文字通り180度異なった人生を送らねばならない左手。
そんな左手に後ろめたさを感じる、今日この頃であります。