私にも「自分」が出来るんじゃないかな?

「「自分」は「自分」であるのか」、よく考えます。
いえ、決して中二病とか哲学的な命題ではありません。もう少し言葉を重ねるならば「自分を自分足らしめる「自我」についての私の方法論はこのままでいいのか」ということ。
え、十分中二病臭い?え、十分しちめんどくさくて哲学臭い?まあまあ、もう少し聞いてくださいよ。回り道をしますけど、ね。
「人間は誰しも平等」とは、近代以降の観念ですが、それはフィクションであり、我々に与えられたスペック、オプションはスタート段階から平等ではありません。
スペックがばらばらの人間同士が「対等につきあう」とはどうゆう事でしょうか?
ひとつの方法と「お互いの時間を尊重する」と言うことがあると思います。相手が意見を言っているときはその話に水を差さず、自分が意見を言っているときには人には水を指させない。そういう、時間区分が、それぞれの会話の分を守ることが、「対等な付き合い方」だし、「自分」というものが持つ「分」のありかただと思っていました。私は思っていました。
でも、最近、この生き方に疑問があります。
私がこの生き方に沿っているのは「人の時間を尊重する」からではなく、「自分の時間を阻害されたくない」からだということに気づいたからです。まあ、はたから見たらどっちか分からないのですが、おそらく自分は、自分の「分」を守りたいのです。と同時に、その「分」を人に押し付けたいのです。
会話の流れを読むことが出来ないから、自分のルールで文を区切る。空気が読めないから、押し黙る。そして自分の「分」を楯に、喋り続ける人間を穏やかならぬ心中で見る。その人たちが私が会話に入ることを阻害しているわけではないのに、私は自分の「分」で、自分自身を阻害している。
「対等」に付き合うためには、自分の「分」を尺度にし、解釈し続けるだけではおそらくダメなのです。
相手の会話に割り込み、相手の会話を尊重する、それらをなんの気なしに行える「しなやかさ」を獲得しなければならないのです。
そして、それが阻害されても、そこに「悪意」を読むのでなく、ただ「そーなのかー」とおもってタイミングだけを学び、阻止されたことに対する「思い」そのものは数秒後に忘れる「処理能力の軽やかさ」が必要なのです。
人は考える「葦」であります。葦は伸び続けます。オートマティックに。実は人の「思い」を越えて。そんな「自動装置」に己を委ね、思考停止すべきときは思考停止する。そして「葦」だけを伸ばす。「己」を保留することで、その実「己自身」を伸ばす。「自我」は己の「誉れ」であると同時に、己の「恥じ」を司る器官。常に額に「自我」の看板を抱えなくても、齢2×の私なら、オートマティックに振舞える蓄積はある。それだけの「蓄積」を自我は恥をかきながらしてくれてたと、思いたい。
若いときに多く「恥をかく」のは「無恥」になるためでも、「鈍感になる」ためでもない。「恥をパターン化」し、そのことに拘泥せず、かつ拘泥している人には思いやりを以って接するための「自動装置」を「マニュアル」を作るための研鑽だ。
それは「ロボット」になることじゃない。「鷹揚さ」を応用すること。あらゆる「反応」をオンにして相手に接することは、必ずしも「智慧」ではないと、思います。賢明はいつでも、何にでも「懸命」であることではない。
そうした放擲のなかで、人と出会い、話し、怒り、生み出す。「己」を棚上げして、「場」を「己」とする。そんな共同空間の中でそれぞれの「分」を作っていくべきなんじゃないかな?
コミットした多くの「共同分」、その接触した「場」。その多くの「輪」の重なりに浮かび上がる部分こそが新しい自分の「分」なんじゃないかな?
高校までの家族との生活で身に着けてきた「自我」、それを、その方法を拡大して、様々な「共同体」にコミットすることで拡散し、収斂する。そのはたらきは、これまでの「自我」をワンオブゼムにして、もっと拡がっていけるんじゃないかな?
やろうと思えば、私にだって、出来るんじゃないかな?
自ずからなる分、
「自分」が。*1

*1:つまるところ、己に与えられた「体」と「父母」という先天的な部分の自我に拘泥するだけでなく、己のコミットした集団も含めて「自我はレクリエイションし続けるもの」だと心がけて、楽になりてーってことです。