アクションは仰ぎ、ギャグは見下ろす

一昨日、アナーキン・ブッコロスカイウォーカーくんと話したことなんですが、アクションマンガ(スポーツマンガ、SFアクション含む)の人物の実際の年齢と我々の年齢を対比したときに大きな開きがありますよね。
多くのアクションマンガのヒーロー、ヒロインたちは自分より年下の20代前半、もしくはティーンのはずなのに、年上の自分の目から見ても彼等は年下でなく、年上に見える。ファーストガンダム当時のブライトさん(マンガじゃないけどね)や聖闘士星矢アルデバランが20歳だってことに、未だに実感がありません。
一方、ギャグマンガの登場人物は、それがいかにオヤジ(例えばバカボンのパパ)であろうが自分より年上に見えない。作画上は見えるかもしれないが、少なくともメンタリティが年上のようにはどうしても思えない。
この「メンタリティ」の部分にアクションマンガとギャグマンガを構成する要素があるのではないでしょうか。
アクションマンガの基本に「願望」があります。これは自分がなしえない事柄をマンガのキャラクターに代理してもらうことでカタルシスを得るというものです。バトルマンガならば、自分が倒せない巨悪を倒す。ビィルドゥングロマンスなら、成長できない自分の弱さをキャラが代弁し、かつ成長の姿を演じてくれる。というように。
つまりアクションマンガに我々が期待する要素として「現実での実現不可能性」があります。それを成し遂げるキャラクターは、我々と地続きの造形は為されていても、確実に「獲得」を踏まえていくという点で、我々とは違う存在です。
そういった存在に対する「憧れ」「羨望」といったものがキャラの年齢を我々より上のものとして感じさせているのではないでしょうか。
ギャグマンガにおいて、我々が期待するのは「おかしさ」です。「おかしさ」は現実との落差によって生まれます。それも、アクションマンガのような上昇的な落差ではなく、見下す落差、笑われる落差です。
したがってギャグマンガのキャラクターたちは、我々より下の存在、少なくとも我々との「差異」において羨望を抱かないものである必要があります。したがてそこに出てくるキャラクターがどんなに年上であろうが、かれらの繰り返す失態は我々の日ごろ行うソレよりはパターナリズムされ、おかしみとして解釈されるものでなければならず、したがって彼らの年齢を低いものに感じさせるのではないでしょうか。
年齢の高下はキャラの精神性を見た際の高下であり、アクションマンガでは「羨望」を介するためそれが高めに、ギャグマンガでは「嘲笑」を介するためそれが低めに映るのではないか、と。
で、このお話、描き手自身の問題に移るとまったく逆の様相を示すのですね。
アクションマンガを長期連載させるには魅力的なキャラ、世界観、展開の起伏などの要素があります。これらを踏まえ、有効に転がすことが出来ればアクションマンガの延命は可能です。しかし、ギャグマンガの場合、「笑い」のパターン自体を変えていく必要があります。
アクションマンガでは描線を引いたり、ロビンマスクに説明させたり、ダメージ描写によって「技の強さ」を。キャラ同士の相互関係によって、その蓄積によって「カタルシスの強さ」を演出することが出来ます。しかしギャグマンガではいくら積み重ねても、そのパターン自体が飽きられてしまったら読者には笑ってもらえないのです。
ストーリーが停滞しているときも、アクションマンガなら「次への伏線か?」と思ってもらえて、ある程度辛抱強く読者は耐えてくれます。しかしギャグマンガなら一回一回の質が全てであり、伏線のための「捨て回」という概念自体が許されないのです。
人はしばしば勘違いをします。「ギャグマンガを笑う自分は「高尚」だ」と。笑われる「キャラクター」よりも、笑わせる「作者」よりも。しかし現実は違います。人を笑わせるのは、笑わせ続けるのは、人を感心させ続けるより何倍も難しい。笑いは数値化できないのです。また、蓄積のための「冗漫」も許されない。アクションマンガに比して、一回一回に新機軸の真剣勝負を要求されるのです。
かように、ギャグマンガ家にはアクションマンガかよりも広範な機軸、一回一回のオチが要求されるのです。これらを処理し、かつ漫画家として長生きできる人間には、アクションマンガよりも高度な知性とテクニックが要求されると、私は考えます。
つまり羨望の対象(ヒーロー)を作るより、嘲笑の対象(道化、ギャグキャラ)を作り、維持し続けるほうが難しいのではないか、と。
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*1:「人は望外のものを、自分の範疇に収まらないものを見ると笑いが漏れる」という、テニプリ読者に見られる現象を解釈することが出来る。どうもテニプリを「ギャグマンガ」と言う言説には、ギャグマンガがアクションマンガより程度が低いというニュアンスがこめられている気がするんだが、上記の解釈を通すと、アクションマンガの枠を超え、毎回、高密度、および変化に富んだ「機軸」を用意し続ける「テニプリ」の展開が、読者の処理速度、解釈、語彙のキャパを越えるので、ギャグという認識に保留し思考停止しているのではないか、と。しかし、ある意味でギャグマンガこそがアクションマンガよりも「変化」と「密度」を要求するので、人々が「ギャグ」と処理するのも間違っていない。高密度な、および変化の豊富なアクションマンガはどこか「笑える」、というか「笑うしかない」事態を引き起こすもの。