「力場」となりうる一次創作とその効用

最近とみに思うのですが、二次創作ひいては二次創作の材料たる『一次創作』はひとつの「力場」を形成しているのではないでしょうか?
私は東方で同人誌を描いておりまして、オンリー即売会で本を売っておるのです。まあ、そこで隣り合った人とお話をします。まあ、赤の他人なんですけども、同じ「東方」というジャンルを知っていて、同人誌を描くほどなのでフツウに会話には困らんわけですよ、ハイ。
で、即売会という「会場」を提供されるから、「現実」にその人間と話をするから「場」が形成されるのだ。というと、これまた少し違う気がする。
一定のジャンルの人間が、一定の場所に集まって、初めて力場が生じるのではなく、ひとつのジャンルが、そのジャンルの要素を含むだけで、あらゆる空間、概念を「力場」に変えてしまう。その力場はそこに人がいなくても常に「ある」と想定され、その力場は枝を張り、「信者」にとってはあらゆる現象がその「恩寵」と解釈される。
そういう現象に関する、抽象的なお話を今からしたいという、わけ。
502 Bad Gateway
この記事の以下の部分。

 「マザーテレサ」を信仰する者同士の間では、もはやそのコミュニケーションにおいて「人間」云々を議論せずに済ませることができる。「マザーテレサ」を媒質とした宗教的コミュニケーションでは、相手が「人間」か否かよりも、「マザーテレサ」の信仰の是非が問われるのである。つまり、「人間」に無理解でも、「人間」に無知でも、「人間」に関して<知ったかぶりの自己欺瞞>を抱いていても、「マザーテレサ」という媒質的概念がシンボライズされ一般化されているという前提に立つだけで、「やっていけるように」なるのである。

「信仰」による「シンボル」の共有。っていうのは一次創作を共有しあう我々もフツウに行っている。さっき述べたように、どこの誰とも知れぬ人とでも「東方」というジャンルの共通性があれば、その人間性を吟味するという手間をすっ飛ばして、具体的な「会話」にもっていけるというわけ。まあ、その会話が長続きするかはまた別の問題だけど。
で、ここからがまあ面白いところで、「東方」というシンボルを共有した後は、そこに付随する概念までも「シンボル」の一部として意義付けるようになってくる。
貧乏や賽銭や腋等の単語が出れば博麗霊夢を連想したり、キノコや八卦霧雨魔理沙を、ナイフやパッドや鼻血で、十六夜咲夜を想像したり、する。この現象は人間の脳が自然と行っている『連想ゲームの順位付け』が影響している。
人間はある単語を聞いたとき、自分の最も頻度の高い連想をその単語に結び付けて解釈する。「日」(にち)と言う言葉を聴けば日付の「日」を連想し、次ぐらいに「日本」を連想し、それからようやっと語源の「太陽」を連想するように、頭の中で自分の日々の使用頻度が高い「意味」「概念」がその言葉、単語に結びつくようにセットされている。Word変換で優先順位の高いものが出て来るみたいに、東方を好む私の場合、必然とその脳内変換の優先順位に偏りが生じる。
実は宗教にもこれと類似した「シンボル」概念がある。キリスト教における聖人には必ずその人物を象徴するシンボル(ペテロは漁師だから魚とか)があり、表情や姿が書き分けられていない図像でも個々の判別が可能になってくる。仏教でも、当初は釈迦の姿は図像化されず、その足形や後光でその存在が認識され、描かれたシンボル(沙羅双樹なら釈迦入滅の場面)によってその情景が信者の頭の中で再生されるようになる。
この「シンボル化」と、その「再生」を可能にするのは、多くの人間がその意味に関する「コンセンサス」を共有していることが重要である。このコンセンサスをある意味無批判に共有しうるのが広い意味での「信者」というものかもしれない。
一次創作でもこれと同じ現象が起こっており、著名な一次創作は同時に多くの「シンボル」を有するようになる。そして、その「シンボル」のみを見ただけでも、容易に元の一次創作のキャラを脳内再生しうるだけの「コンセンサス」を獲得するのだ。
この「コンセンサス」は一度形成されるとそれ自体を燃料にして「拡大再生産」される。同人誌を作るときの色付けにされたり、会話の燃料にされたり、ニコニコ動画でのコメントにされたりする。そうやって「シンボル」と「現物」の掛け合いが繰り返されることで、シンボルは強固に対象と結びつく。
そうなると今度は「シンボル」そのものが一人歩きしているような錯覚に襲われる。それまではキャラクター理解の為に使用されていたはずの「シンボル」が、それのみでキャラクターの映写機のような効果を発揮する。さながらパブロフの犬の如く、現物はなくてもその象徴だけで現物と同じ効果を得られるという、フェチズムに近い様相を呈するようになるのだ。中学生が脳内のエロスに該当するワードを辞書で引いただけで興奮するという、あの現象だ。
これを一人部屋の中で悶々と行っているだけなら、自慰行為の延長なのだ。しかしこれが広く共有されるとまた違った様相を呈する。「信団」の形成だ。
ニコニコ動画の最大の「功罪」は、この「信団」の形成を容易にしたことである。映像とソレをあらわす「シンボル」や「文字」といった抽象度を増した記号が併置されることによって、それを見る人間に「キャラクター」とそれを表す「シンボル」が同時に刷り込まれるようになる。それも何度も。
このことで、大してそのジャンルに興味を持っていない人間でも、数年前のオタよりははるかに相互の「シンボル」の共有度が高くなっている。いや、ある意味シンボルを共有するための場こそがニコニコなのかもしれない。
ニコニコの登場は、一次創作のキャラやキャラ自身の持つ属性のみでなく、そのキャラの「シンボル」の伝達すら容易にした。そして「シンボル」という極めて抽象度の高い概念は、富士の裾野のように広がりを見せ、容易に他の一次創作との結びつきを可能にしている。「シンボル」という「裾野」同士の融合によって、ジャンルの越境、拡大、習合化は驚くべき勢いで為されている。そうなってくると右を見ても、左を見ても、上見て下見てもあらゆるものがキャラクターの恩寵に、一次創作の恩寵に見えてくるかもしれない。まさに「信者」の誕生である。同時にこれらの融合は、一次創作を抽象化していき、「自分たちで創作したものでありながら、自分たちの制御が利かない」。さながらそのもの自体が「意思」を持っているような錯覚に襲われる。さながらコックリさんのような。
それこそが「力場」なのだ。人格神も、おそらくはそうした抽象の積み重ねから生まれ、制御を離れ、それ自体が一人歩きするようになったのだと、思う。
楽しきかな、キャラクターという新時代の八百万神。新時代の力場。