イデア会

我々はイデアのなかに生きています。

プラトン入門 (ちくま新書)

プラトン入門 (ちくま新書)

私たちは「真」「善」「美」などの抽象概念をさも、それが実態としてそこにあるかのように語っています。が、それを見たことも、触ったことはありません。まあ、数式や、親切や、美術作品など、「末端」として切り出された「ソレ」を見ることはできるのですが、「真」「善」「美」そのもの。純度百パーセント、果汁百パーセントのソレに会うことはできません。
でも、さもそれがそこにあるかのように語るのは何故でしょう。概念の「本質」を見たことが無いのに、さも自分のものとして語っているのは何故なんでしょう?そこを考える鍵が「イデア」です。
この本は西洋社会、ひいては近代世界で誤解され続けたプラトニスムとイデアについて平易な言葉で、その実相を説きます。
我々はイデア界というと、それこそここではないどこか。万物の根源。全てが湧き出す泉。とでもいうような、「実定的」な「幻想空間」を思い浮かべます。そしてそんな妄想をするプラトンを、「そういえば飯島愛プラトニック・セックスって、古本屋の100円ワゴンにおいてるかなー」といって笑います。しかし、プラトンイデア界も「幻想的」なものではありません。むしろ我々の本質に対するあきらめのよさこそが「幻想的」なのです。
例として全自動洗濯機を挙げてみましょう。
全自動洗濯機を現代の我々は簡単に使うことができます。何故ならボタン一つで勝手に服を洗ってくれるから。でも、この全自動洗濯機が「どのような」原理で動いて、「どうすれば」作ることが出来るのかはエンジニアでなければわからない。でも、我々はボタン一つで使えるので、その製作過程や内部構造に思いをはせることはめったに無い。このボタンこそが「真」であり「善」、「美」といった「概念」です。使うことが出来るけど、皆が知っているけれど、その「内部構造」を知ろうとしない。なぜならボタン一つで使うことが出来るから。
しかし、いざ故障したとき、ボタンの押し方を覚えていることは何の役にも立ちません。そう、我々が分かっていると思い込んでいる「概念」にたいする我々の「理解」とはその程度のものなのです。
プラトンは「イデア界」という全自動洗濯機の内部構造に踏み込んでいって、概念に対する認識の深化を、その本質を掴み取る努力をしよう。といっているだけなのです。それをかってに怪しげな宗教にしてしまう我々こそが「イデア界」を「ボタン」と勘違いしているのです。で、そのままうっちゃっているにもかかわらず「愛とはつまり幻想なんだよ」とかぬかすのです。その態度こそが「幻想」であり、「表層」なのです。
眼に見えないけれど、「ある」。我々はそんなあやふやな「概念」を単語にして言語コミニュケーションをしています。
「人間世界のみに通じる『概念』を『概念』たらしめている『根拠』は、『本質』はなんなのか」
その本質を「概念化」した「イデア界」というツールを「幻想」などといってしまったら、それこそ上っ面で概念世界に生きていることを証明してしまいます。くわばら、くわばら。