やむなく発す

止むをえなく「発射」することって、ありますか?
どうしようもなくなって「飛び出て」しまうことはありませんか?
「ストップ」かけれんとき、ないすか?
いやね。私。考えるんですよ。ことばってね、本来「留保」(りゅうほ)だったんじゃないかって。そして今でもまだ留保なんじゃないかって。ほら、昨日したでしょ、プラトンの話し。イデア界がどうこうってやつ。アノ話の前からずっと思ってたんですよ。我々の感情、いや「思い」。こいつは贅沢モノなんですよ。ふじこちゃんですよ。ああ、ルパンのあのボインちゃんのこと。「思い」ってなかなか折れないんですわ。自分にも、他人にも。喜怒哀楽様々な思いがね、こう「ほっ」と胸に湧き上がるとしますでしょ。で、そいつを「怒り」と名づけるわけだよ。あ、コレまだ心の中ね。で、その思いからしてみたら、私にたいしてこういいたいわけですわ。「あたしゃ『怒り』でも、ただの『怒り』じゃないんだよ。三分前にたんすの角に足をぶつけたこと。たしかに直接の経緯はそれなんだ、でもね、それ以前からわだかまっていた思いなんだよ。それがたんすの角をきっかけに噴出してんのよ。成分表にするとねたんす20パー、夕べの夕食のカップ焼きそばの具が流しに流れたのが10パー、それと今日の暑さが不快指数で10パー。生の悩み性の悩みで7パー。それがまあ、与党と野党。そこから中小政党が煩悩百八キラ星の数あるんだよ。まあ説明していくね。まず第一に0.78パーには頭頂部後退によるホルモンの問題があり、第二に0.75パーとして何故マッドギャランさまがジャスピオンに勝てなかったのかということを延々と数年間考え続けているのがあり、第三…」なーんてぐだぐだぐだぐだといつまでも繰言くりくりくりかえしできりがないんですよ。こころ。そんなこころの怒りのむこうっつらをパシーンとひっぱたいて無理やり「そいつあ怒りだ。たんすの怒り」と大岡裁きをするのが心の声。で、そのむにゃむにゃをただ「怒り」として発するのが現実の声だ。そうして人間世界の共通項の俎上にのせんのです。そうしないと延々グダグダが続いてしまうのです。深く深くどろのなかにどろどろどろと沈み込む心の沼地なのです。そんな沼地にくいを打ち込むのが言葉ですよ。留保ですよ。いったんじぶんのうやむや語りきれん複雑な成分表をうっちゃって。不確かだけど、まあ、そこそこ許せるコトノハに載せて発することでハッスル。そうやってやることで、まあそのうち「いいや。うっちゃれ」となるんですよ。根本的解決なんてないですよ、当然。人間が全ての問題に対して根本的解決を図ろうとしたら、まず心の泥沼にドロドロドロドロはまるだけです。留保という言葉のクイで持って、人間の本義を、そのつどそのつどの感情の結晶を雲散霧消させないととっくのとうに鉱物化してまいます。化石です。燃料にもなりゃしません。かたくななオブジェです。まあ、そんなわけではじめに言葉があったかは知りません。なかったら拳が飛んだり、セックスしたり、食ったり、まあ、そんな風に問題を誤魔化していたでしょう。逃げていたでしょう。でもね、逃げないと、留保しないと人間は文明なんて気づけなかったのですよ。己にかかずらわったまま、死んでいたんですよ。コンクリートできなかったでしょうよ。というか、逆ね。おそらく「根本的解決」なんて幻想を見出してから、私たちはソレを「留保」と呼ぶようになったんだ。問題を発生させたのは、なんだよ。なんだ。おい、結局は留保しきれなくなったこらえ性のなさじゃないか。しょうもねぇ。いいんですよ、ちっぽけな人間同士おたがいのうやむやをコンクリートして投げ合えば。どうせそんなたいしたもんじゃないんだから。それで誤魔化せるこころは投げられるうちに投げたほうがいい。そうやって上手く「留保」すればいい。
ひとりじゃないんだから。