「かんじる」と「しっている」と「わかる」と「できる」の違い

「かんじる」「しっている」、「わかる」、「できる」。
とりあえず私なりにこの四つの言葉をこう捉えました。
かんじる…物事に印象を受ける
しっている…物事を理解している
わかる…物事を理解し、かつ相手に説明できる
できる…物事を理解し、相手に説明でき、なおそれを実践できる。
このよっつは
かんじる<しっている<わかる
というように序列化されます。
これらを区別し、序列化して生きるだけでも、自分の可能性は広がると思います。なにより「目標」が明確化される。
漫画や小説を読んでそれを「批評」する場合、この「かんじる」、「しっている」、「わかる」、「できる」を区分する必要が出てきます。たとえば、
「あの漫画。スゲー面白いよなー」という感想。これは「かんじる」です。思ったままを口にしています。が、どこがどう面白いのかは具体的には口にしません。これが、
「あの漫画。主人公がかっこいいよな」という感想になると「しっている」に近づきます。その作品「固有」の評価点を見つけ、それを評するという「視点」とでもいうべきものが明確化されだしたからです。「あの漫画。主人公が運命に負けずに頑張っているところがかっこいいよな」というところまで行くと、「しっている」もかなり高度になり、「わかる」に近づいたといえましょう。
「しっている」のキーワードはそれを語る人間の「視点」が介在すること。
さらに「わかる」になると、「あの漫画の主人公が『運命に負けずに頑張る』のがカッコイイのは、彼は過去に運命から逃げたことがあって、その過去と現在の『落差』としてカッコよさが浮き彫りになる。また敵は『運命に負けたもの』であって、そいつとの対比構造によって、さらに「運命に負けない」部分が強調される」というように、その作品のギミックも含め、読者に特定の感情を想起させる「しくみ」が理解でき、なおかつ人に説明できることを指します。
で、前述の三つとちがって「できる」は特殊な位置づけにあります。これは不思議なもので「かんじる」段階の人間でも出来てしまうものです。一方、いくら「わかって」いても「できる」をできない人間は、多い。小説の評論家がそのまま小説家になれないのと同じ。パズルを解けて、かつそのギミックを理解できる人間が、必ずしもパズルを作ることができないのと同じ理論です。
なので、しばしば作家は自分の作品を「面白くする技」を知っていても、その原理を人に説明することはできない。まあ、職人なんかを見ているとよくわかりますね。「勘」という暗黙知があるわけです。「天然力」ともいいますね。
で、問題なのはこの「かんじる」、「しっている」、「わかる」、「できる」を混合して同じ俎上の乗せてしまうこと。例えば「この作品は腐女子向けだからつまらない」という批評は、「かんじる」に毛が生えた程度の物言いです。作品固有の要素を己「固有」の言葉で説明することなしに、使い古されたテンプレで作品が語れると思ってしまっている。かつ、それを「批評」と思っている点です。
「批評」に値するためには「しっている」の段階を踏まえるのはもちろん、それを「客観化」、「固有化」する必要が出てくるのです。そうなって初めて「わかる」に近づくことが出来ます。
「批評」とは喧嘩や、放言ではなく、「合意点」と「対立点」を明確化するための共同作業です。ひとりひとりが「敵」でも「味方」でもなく、「作品」を含んだ「世界」、我々の生きる「人間世界」のリポジトリに奉仕するための「要素」なのです。
…最後に。忘れてはならないのは「かんじる」「しっている」「わかる」に不等式をつけましたが、それがイコールその「批評」の面白さにならないところです。「かんじる」の部分だけで万人を掴んでしまうものもあれば、「わかる」がいくら先鋭化されてもつまらないものもあるのです。まあ、そこにこそ「天然力」や「テクニック」、ないしは「+α」が介在する部分なのでしょう。今回取り上げたのは「議論の俎上」に上がった場合、なおかつ、自分の立ち居地を理解せずに相手に理不尽な喧嘩を売る場合の話です。