「情け」の恐怖

「情けはひとのためならず」という言葉。
誤解されている場合が多いですが、「情けはひとのためではなく、自分のためにするものだ」という意味です。
この言葉は、そのままの意味で取れば「恩返し」「報恩」の思想と捉えられるかもしれません。つまり「人に情けをかければ、いつかはそれが回りまわって自分に還って来る」というペイ・フォワードの思想だと。ある意味においては間違いありません。しかし、そう捉える人が多い故の弊害もあります。「即効性がない」「そんなものは人の善意に頼った当てにならないものだ」という言説がまかり通ってしまうことです。「情けはひとのためならず」が「情けをかけたら人のためにならないよ」という意味に誤解して伝えられたのは、この「標語」がペイ・フォワードの意味を中心として捉えられた事にあるのではないか、と私は考えています。
しかし、この「情けは人のためならず」。実は即効性のある言葉なのではないでしょうか。
「情け」を「する」ために必要なこと。それは「情け」が何であるか知っていること。当たり前ですね。でも、難しい。
例えば、一人の幼児が泣いているとします。彼に「情け」をかけるためには、まず彼の立場に立って考えることが必要です。彼と同じ目線で、かれのタドタドしい話を聞き取り、会話を成立させるリテラシーが必要なのです。ここまでは相手に感情移入すればいい話です。しかし、「情け」は感情移入だけではすみません。
彼がおもちゃをほしがって泣いていたとしましょう。そうした場合、我々は「情け」によって彼に「モノ」を与えるべきでしょうか。そこで彼の感情にばかり寄り添っては、彼の「欲望」は充足できても、彼の「社会性」にダメージを与える可能性がある。「情け」は相手の感情に寄り添うだけではかけられない。時に相手の感情に逆らうこともしなければならないのです。
このように「情け」をかけるバランスやタイミングはその都度玄妙に変化し、とらえどころがないのです。そしてなにより我々のコミュニケーションはこの「玄妙なる変化」の中に存在しているのです。そう「情け」とは常に我々が行っているコミュニケーションの中核なのです。
相手に対する一方的な奉仕でもなく、相手から受ける一方的な贈与でもない。「生きる」こととはすなわち「情け」の中に住むこと。「情け」とは人と人の間のクッションであり、ソレを備えるものがはじめて「人間」と呼ばれるのです。「情けはひとのためならず」というのは「人間であり続けるための終わりなきトレーニング」のことを指します。相手にも、自分にも負担をかけず、憎悪を抱かず、ちょうどいい「間」を獲得するための耐えざる研磨。それこそが「情け」なのです。限られた、特別な「親切」を指す言葉ではなく、日常の所作こそが「情け」そのもの。人間であり続けるためのバランス感覚なのです。「人」はその人の情けの量で以って、「人格」を査定します。
どうです?「情けはひとのためならず」が、恐ろしい言葉に思えてきたでしょう。「情けはひとのためならず、自分のために行うもの」。それが出来ない人間は「情けない」生き物になるという、恐るべき意味を備えているのです。