和魂要塞

洋才だ、要塞だ、やまとごころとは要塞だ。

やまとごころはやまとだましいは「如才なきこと」だ、つまりジョサイヤ・コンドルだ。吉田松陰菅原道真ではなく伊藤博文藤原時平に冠せられるべき称号だ。

断じてさくらばななどではない。漢才と洋才の間にもえいづるすきまだ。埋めようも無い空白だ。そこを朗らかに乗り切ったり、知っていてもあえて事を荒立てずにそつなくこなすのがやまとごころだ。決してほろびのびとやまとを同質化してはいけない。死ぬための才などいらない。生きてこその才なのだ。墓場にはもっていけんのだ。

何故死人を云々するためのやまとごころなのか。やまとだましいなのか。死者の霊を慰めるために、死者に取り込まれ、死者の文脈でずうずうしくものをかたるのがやまとごころなのか。怨霊なのか。勝手に死者のお先使いをして善いのはその一族だけだ。祭祀をおこなうものだけだ。奪いあう「社稷」とごっちゃにして、あかのたにんの人格を死してなお云々する怨霊信仰など、わたしのくみするところではない。カエサルのものはカエサルのものだ。くれるといってもうけとるな。

ようさいだ。かんさいだと、二つの狭間から押し出されたところてんだ。ところてんならばところてんらしく、いかにバッファの役割を果たすか。おのれのなかの調停をするかを考えねばならない。相手の文脈で相撲を取ることに長けることこそが、我々がなしうる美徳なんじゃないのか?

かたくなさではならない、かたくなきことを、おもう、かたくなしさ。やまとごころは、やわらかさ、あわれにもくずれゆくらむ、かんてんばし。りょうてでせめぎとられ、そのつど、かたちをかえる。そしてそれをへんせつだとかこうもりだとかぬかすもののやまとごころ、おくびょうものにはくみさない。