耐え難きを、耐え、語り難きを、語るため

「口」が「持論」を語れない。
「思い」が「持論」に載らない。
そんな苦しみを抱えて、私たちは生きています。「もっと、よく回る口があれば」、「もっとよく回るこころがあれば」。
私たちは人を馬鹿にします。そして人から馬鹿にされます。しかし、「私たち」は、そして「私たちを語る人」は、どれだけお互いのことが分かっているのでしょうか。
ありていに言えば、その人間が、
「口下手」故馬鹿にされるのか?
「思想が未熟」故馬鹿にされるのか?
「思いがない」故馬鹿にされるのか?
他人に対して私たちが、私たちに対して他人が、この弁別をして、相手を斟酌しているとはどうしても思えないのです。
子供が「子供扱い」されるのは、「思いがない」からではありません。快不快に対しての根本的なメンタリティは10歳だろうが20歳だろうが100歳だろうが、そんなには違いは無い。
彼らが「子供扱い」されるのはひとえに「思想が未熟」だからです。自分の「快・不快」を表現するために脳みそをこねくり回して、小ずるく立ち回るすべを、しらないだけ。
口下手な人が「無能扱い」されるのは、「思想がない」からではありません。思いのたけはそれを的確に述べることが出来る人間のみが有しているわけでは、もちろんない。
彼らが「無能扱い」されるのはひとえに「説き難きを、説けないから」です。己の説きがたき心に囚われて、それを中途半端にやめることが出来ずに、いいところで適当な概念に落とし込むことをせずに、延々と蟠る(わだかまる)から。
もちろん、そこに留まっていることが正しいなんて、思いません。「巧言令色鮮なし仁」とも、思いません。蟠る人間は、巧言令色の人に、どこか頼って生きている。適当に落しどころを決められ、適切に議論を打ち切れる人間に助けられて、生きている。そこを履き違えては、いけない。
でも、だからといって、「言えない」から「思いがない」わけじゃない。「思いがある」けど「言えない」。適切に伝えられるか、分からない。だけど、そこには思いがある。スラスラと淀みなく流れる川にはない、議すべき義がある。曰く言いがたい、されども伝えたい言葉。
その「説き難きこころ」を「難言」(なんげん)、「説難」(ぜいなん)という二章で著した思想家が2200年前に存在しました。
彼には、「説き難い」二つの関門がありました。
ひとつ。人は、己の耳に心地よい言葉しか、聴かない。
ふたつ。彼は、人に届く心地よい言葉では、喋れない。
何故なら彼は吃音(どもり)だったから。
その名は韓非(かんぴ)。説き難き「人」を、「己」を越えて、おのれの「言葉」で中華をはじめて統一した男。

韓非子 (第1冊) (岩波文庫)

韓非子 (第1冊) (岩波文庫)

次回から、韓非子について語っていきたいと思います。