第三『難言』、第十二『説難』

私(韓非)は、君主に申し上げることが出来ないのではありません。


言葉を華やかに飾れば、「飾りばかりで実が無い」と思われましょう。
手堅く、うやうやしく述べても、「話し方がまずく、筋が通らない」と思われます。
あれこれ述べて、比較を多く用いれば、「内容が無い」と言われます。
そこで細かいことを省略して、簡素にすれば、「あやふやで口下手な奴」と言われます。
激しく迫って、腹を探るように語れば、「僭越で無礼だ」と思われます。
かといって広大で、計り知れないよう語ったとしても、「誇大妄想だ」と思われます。
しかし、日常のことを細々と、計算を交えて述べても、「細かい」と言われるでしょう。
俗っぽい言葉で、逆らわないでいると、「命惜しさにへつらっている」と思われます。
かといって俗っぽくせず、奇をてらっても、「でたらめだ」とされるでしょう。
矢継ぎ早にして、文飾をさかんにすれば、「文章家か」と言われましょうし、
言葉飾りを捨てて、質実に述べても、「下賤だ」とされましょう。
過去の歴史に照らし合わせ述べれば、「暗記してきたことを言っているな」と。


以上が、私韓非が申し上げることができずに、重く憂いているゆえんです。
                                  韓非子『難言』

ウン、なんか、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』みたいな気分になってきましたよ。後世、「中華風マキャベリスト」やら「性悪説の権化」やら、なんのかのと言われる韓非ですが、彼は言葉を「発する」ために、かほどの苦心惨憺とした思いを巡らせるのです。
日々、言い難く、言えずに押し黙ってしまう私は、この「難言」の冒頭に、その思いを余さず著す韓非に、たまらないシンパサイズを抱いてしまうのです。
でも、ここで考えていただきたいのは、韓非は「喋れないから、喋らない」のではないということ。彼は、自分が語らない理由を語っているのではなく、自分の言が曲げて受け取られる理由を列挙しているということです。
そう、人という生き物は人の話を聞かない。いや、厳密には「自分の都合のいいようにしか、聞くことが出来ない」。そういう人間の『断絶』を韓非は『難言』にて述べているのです。
では、そこで諦めるのか。他人に対して「アイツは私の言葉を聴かない。聞いても曲解するとんでもない奴だ」と、レッテルを貼りましょうか?でもそれだと、韓非の話を曲解する「君主」と同じになりませんか?
韓非はやめなかった。彼は説き難き世を、人間(じんかん)を嘆きつつも、「どうすれば聞かせることが出来るのか」を考え続けます。彼は『説難』において、人に説くわざを語ります。

説くことの難しさは
説くべき内容を「知る」ことにあるのではなく、
自分の意志を「明らかにする」ことにあるのではなく、
技巧を使って「解きつくす」ことにあるのでもない。
説くことの難しさは
説くべき相手のこころに、己の説を沿わせることにあるのだ。

                                  韓非子『説難』

言葉を相手の為にカスタマイズする。韓非のいたったシンプルな結論です。性悪説を説くものは、かくも、かくも人の「放埓な人情」に寄り添おうと血涙を流すのです。
でも、これだけでは、ただのアフォリズムです。韓非はきちんとそのやり方についても語っていてくれます。それはまた、次回。