砲台一直線

昨日の続きです。
私mantrapriと、id:cujoさんは和歌山県友ヶ島を訪れました。

紀伊半島と淡路島のちょうど中間に位置するこの島は、明治期における国土防衛の要でした。
幕末、日本の長きにわたる鎖国は、アメリカ艦隊の来航によって終わりを遂げます。1853年三浦半島浦賀に訪れたペリー艦隊。その異国船の大きさもさることながら、最もその当時の人々の心胆を寒からしめたであろうこと、それは「海は防壁にならない」ということです。
それ以前の日本の歴史的危機を紐解くと、海の存在はかなりネックになってきます。
白村江の際、唐・新羅連合軍に敗れた日本軍が追い討ちをかけられなかったのは、大陸より隔てられたその地理的条件にありましょう。
また、元寇の際も、終始守勢に回りながらも防衛を全うできたのは、神風よりも、なによりも、海という大きな防塁があったればこそです。
そう、日本は海によって守られ続けた国だったのです。しかし、幕末のこの時は違った。ペリー艦隊が現れたのは浦賀。東京駅から横須賀線でわずか1時間半の距離に、急に匕首を突きつけられたのです。まあ、別にペリーは喧嘩を売りにきたわけでなく、捕鯨の経由地が欲しかっただけなのですが、過去の歴史を紐解いて、他国の軍隊に喉元近くまで踏み込まれたことはなかったわけです。*1
海はもはや、日本を守る防塁ではなく、逆に日本を取り囲む腕(かいな)へと変貌してしまった、ということ。林子平が『海国兵談』で説き続けていた脅威が、ようやく全民衆に肌で実感できる「カタチ」としてやってきたわけです。
江戸、大阪、そして京都。当時の、そして現代でも主要都市であるこの一都二府は海浜地帯、ないしはそこから間近にあります。つまり、他国が蒸気船で以って海伝いに攻めて来た場合、陸をいくら守っても意味を成さないのです。
白村江のように大宰府大野城、水城を、山陽道、瀬戸内海沿いに朝鮮式山城を作って防衛しても、太平洋周りで大阪湾にあっさり上陸されてしまいます。
元寇のように大宰府に防塁、異国警固番役を置き、西国武士を動員しても、あっさり浦賀から直に鎌倉へと攻め上られてしまいます。
海に甘え、海と共に生きてきた海洋民族は、このとき初めて海が揺り篭ではないことを実感したのではないでしょうか。そう、海に面した都市は、かくも無防備。まあ、実際には兵站の問題もあるので、そこまで上手くはいかないと思いますが、当時の首脳陣にはこれらのシミュレーションが脳内をぐるぐる渦巻いていたと思われます。
こうして江戸幕府、明治政府は、国を挙げて『海防』(かいぼう)の問題へと取り組んでいくことになります。
海防の要は「主要都市の防衛」です。海に面した江戸、大阪を防衛するため、政府は東京湾、大阪湾の要塞化を進めました。
そう、ここで友ヶ島の重要性が出てきます。下の地図をご覧下さい。

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これを見ると大阪湾は淡路島によってカバーされていることが分かります。もし、淡路島なかりせば、国土の防衛はより困難になっていたでしょう。オノコロに感謝です。で、問題は淡路島の両端の二つの海峡です。
西側の明石海峡は、幅の狭い瀬戸内海に面しているため、ここを船で特攻してくる無能な艦隊はいないでしょう。それ以前の瀬戸内海防衛は、下関砲台、呉、大久野島砲台等、幾重もの防衛ラインが敷かれております。
問題は南に位置する紀淡海峡(きたんかいきょう)です。瀬戸内海と違い、太平洋から進入した場合、四国と本州の幅が狭くなるのはここだけなのです。そう、防衛のチャンスはたった一回きり。紀淡海峡を抜かれれば、大阪湾を守る要は、もはやない。事実、1854年にロシアのプチャーチン紀淡海峡をあっさり抜けて、その艦隊の威容を天保山近くに見せております。

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必然的に紀淡海峡の防衛が、大阪湾防衛の要となります。そしてその防衛を一手に担ったのが『由良要塞』(ゆらようさい)です。その要に位置するのが由良要塞友ヶ島地区、通称・友ヶ島要塞。
次回は由良要塞の概説と砲台の解説をします。

*1:あ、ペリーより少し前にビッドルが浦賀にきていることも一応書き加えておきます